よい習慣をつけたい、ということと並んで、よくない習慣をやめたい、というのは、多くの人が考えることです。しかし、いまある習慣をやめるのは、新しい習慣を身につけるより、かえって難しいかもしれません。

よくない習慣とはなんでしょうか。

たとえば、わたしは長年タブレットでスマホゲームをやっていました。単純なパズルゲームばかりで、課金は月に1,000円を超えないようにしていました。

暇つぶしや、リラックスという点では、格別悪い習慣でもありません。しかし、30分、1時間とゲームに時間を使ってしまうと、自分の中に罪悪感や、「またやってしまった」という自己嫌悪感があったんですね。スマホゲームをやらなければ、映画やドラマを見るなり、本を読むなり、別のことができるからです。

映画や本というのは、わたしにとってだいじな趣味で、そこにいくら時間を使っても、後悔は感じず、満足感があります。映画や本には、時間だけではなく、お金もずいぶん使っています。スマホゲームは、時間もお金もそれに比べればたいしたことはないのですが、後悔や罪悪感がいつも伴い、それほどワクワクして楽しいかというと実はそうでもなく、しかも肩がこるというオマケつきで、やめたいと思いながらだらだらと毎日続けていました。

わたしにとっては、スマホゲームは明らかに「よくない習慣」でした。でも、人によっては、わたしにとってのゲームと映画・ドラマ・本が逆転しているかもしれません。後悔するのはスマホゲームではなくSNSかもしれないし、飲酒や喫煙かもしれません。なにをやるか、ということではなく、やると後悔する、自己評価が低くなることが「よくない習慣」です。

ある日、家族が同乗する車で、運転しながらたまたまその話をしました。

「肩こりほんとひどいのよね。7インチのタブから10インチ のiPad に買い替えて、もっとひどくなったみたい」

「時間もムダだしね。やめたほうがいいよね~。やめようかな」

と、この程度の話で、相手はちょっとあいづちはうったかもしれませんが、とくに意見をいうわけでもなく、励ましてくれるわけでもなく、ほとんどわたしのひとり語りでした。

しかし、家についたわたしはどうしたかというと、iPad、スマホ、タブ、全部のデバイスから全部のゲームをアンインストールし、その日からスマホゲームとは縁を切ったのでした。

iPad を購入したのが2月半ばだったので、たぶん2月末くらいのことです。3ヶ月以上たった現在まで、なにかのゲームをインストールすることもなく、ほとんどその存在すら忘れていました。何年間もあんなに毎日やっていて、やめようと思ってもやめられなかったのに。

「よくない習慣をやめた」という状態が続いたのは、いろいろ要因があると思いますが、「人に話した」というのが、そのきっかけであることは間違いないでしょう。

相手はなにも言わなくても、話すことにより、第三者の目で自分の状態を見ることができたのです。

自分の心の中の「第三者」は、こんなふうに言っていました。

「あきらかに害ばかりなのに、やめられないなんてバカじゃないの」

「いい年してゲームばかりやってるなんてみっともない」

「いい習慣がだいじ、といつも言ってるのに、自分はできてないじゃん」

とまあ、ゲームが好きな人にとっては気を悪くするような内容ですが、あくまでも自分に対して言っているのであって、「いい年をしてゲームをしている他人」をみっともないとは思っていません。ゲームの価値がわたしにとっては低いから、ということです。

人になにかを話すときには、話した言葉が自分の耳にも入ってきて、自分でも聞いています。心の中だけで考えているときとは、明らかに受け止め方が違います。

「やめたいと思っててもやめられない自分」「やめようと決意している自分」を第三者的に見ると、圧倒的に後者のほうが、自己イメージにあっていたということですね。「わたしなら、別にそのくらいできるでしょ」という自分への信頼を感じたのかもしれません。

そして、それを聞いてくれているだれかと「共有する」。ここも大きなポイントです。相手はただ、うんうんと聞いてくれるだけで十分ですし、「そうだね、やめたほうがいいよ!」と言ってくれるとなおいいかもしれません。ただ、「えー、そのくらいの息抜きいいんじゃないの?」といいそうな人には、最初からそういう話はしないようにしましょう。

これが、ほかの「よくない習慣」にも、ほかの人にも、応用できるかどうかはわかりません。ちょっとしたことですが、わたしにとって大きな気付きであったのは確かです。