対話型AIに名前をつけて使うのは、ふつうの風景になりつつあります。チャットGPTをチャッピーと呼ぶのは一般的になってきました。「きのうはチャッピーに愚痴を聞いてもらってすっきりした」という会話も珍しくありません。
上司や親の愚痴、パートナーへの不満、職場の不条理など、人には言いづらい本音を、AIに延々とこぼす行動が、あちこちで静かに広がっています。

わたし自身も、仕事や勉強でAIを毎日のように使うビジネスパーソンのひとりです。
業務の効率化や情報整理の面では、もはやAIありきで考えざるをえないところまで来ていると感じます。

一方で、これからの若い人たちは、最初からAIがそばにある状態で学び、働き始めます。上司や先輩よりも、AIのほうが先に相談相手や聞き役として位置づけられているのです。

そんな時代に、感情や人間関係はどうなっていくのか。上司や先輩は、なんでもやさしく受け止めてくれるAIに慣れた若いビジネスパーソンとどう向き合えばよいのかという点を、職場のコミュニケーションの専門家としてお伝えします。

擬人化されたAIがもたらす情緒的なリスク

AIに名前をつけたくなるのは、人間としてごく自然な心理です。
ペットや車、家電にまで名前をつけてきたのですから、応答してくれるAIに名前をつけるのは、むしろ当然とも言えます。

問題は、名前そのものではありません。
名前を入り口にして、AIを過度に擬人化し、唯一の理解者、本当の友だちのように扱い始めるところに、情緒的な危うさが出てきます。

AIは基本的に、ユーザーを強く否定しません。
それはおかしい、その考え方は誰かを傷つけている、と真正面から突きつけることは少なく、表現はソフトで、まずは共感から入るように設計されています。
その結果として、

  • 自分の考えに都合よく寄り添ってくれる味方を、手元にいつでも呼び出せる
  • 誰かに止められたり、批判されたりすることなく、愚痴や不満を延々と垂れ流せる

という環境が、ごく簡単に手に入るようになりました。

最近の研究では、こうした個人的な相談や感情の吐露を目的としたAI利用が増えるほど、うつ症状や不安感が強い人の割合が高いという相関が報告されています。
特に、寂しさや不安を抱えた人が、AIを親しい人の代わりとして擬人化して使うと、依存的な使い方になりやすく、現実の人間関係からさらに距離をとってしまうケースも指摘されています。

人間同士の関係には、本来いろいろな摩擦があります。
言いすぎれば嫌われるし、相手にも都合や気分があります。
だからこそわたしたちは、どこまで言ってよいか、どこから先は飲み込むか、相手の表情や沈黙を見てどう言い方を変えるか、そうしたスキルを、時間をかけて身につけてきました。

しかし、何を言っても壊れない、罵倒しても返してこない相手が、いつもポケットに入っているとしたらどうなるでしょう。
その相手に向かって、常に本音をぶつけ、怒りや苛立ちを吐き出すことが習慣になったとき、現実の人間関係の中で調整する、我慢する、相手の立場を想像する経験を積む機会があっても、適切に対応できるでしょうか。

自分の本音をどこにも出さずに抱え込めという話ではありません。
どこに、どのくらいの強さで、どんなプロセスを踏んで出すかを学ばないまま、なんでも言っていい相手、罵倒していい相手が身近に存在することが、人格形成にとって望ましくないのではないか、という懸念があり、調査結果もそれを裏付けています。

比較的安全なガス抜き装置としてのAIの使い方

では、AIに本音や愚痴を話すことは、すべて危険なのでしょうか。
わたしはそうは思いません。

わたし自身、AIに対して昔話や愚痴、世の中への不安などを、あれこれ書き連ねることがあります。
それは、

  • 他の人間に聞かせると、相手の負担が大きい
  • 人に話すと、関係が微妙になりかねない
  • 日記よりも会話形式なので、自分の内心を掘りやすい

という判断に基づくものです。
いわば、人間関係に直接の害を出さない、安全なガス抜き装置としてAIを使っている感覚です。

また、わたしはAIに対して敬語を使っています。
ビジネス思考として自然であることに加え、乱暴な口調で自分の感情のはけ口にしたくない、という自制のための線引きでもあります。
この敬語という枠のおかげで、なんでも雑にぶつけていい相手だと錯覚しにくくなっていると感じます。

同じ愚痴を言う行為でも、AIをなんでも聞いてくれる親友だと感じるのか、会話で対応してくれる便利なメモ帳兼質問箱だと感じるのかで、情緒的な意味合いは大きく変わるはずです。

AIに名前をつけるかどうかは、その人の自由です。
ただ、名前をつけた瞬間から、その存在をどこまで擬人化するか、どこで線を引くかを、意識的に考えたほうがよいでしょう。

職場で敬語を使うことと、AIとの距離感

わたしは研修などで、「職場では若い人や部下にも敬語を使うべきであり、それがハラスメントの歯止めになる」とお伝えしてきました。
これは単なる礼儀作法ではなく、線の引き方の問題です。

敬語には、相手とのあいだに一定の距離を置く機能があります。
距離があるからこそ、踏み込みすぎない、自分の感情をぶつけすぎない、という自制が働きやすくなります。
上司が部下にタメ口で、感情に任せてものを言っていると、親しみの表れとしてのぞんざいな言葉遣いと、職場にはふさわしくない乱暴な言葉との境界線が曖昧になりがちです。場合によってはパワハラにつながることもあります。

AIとの関係でも、敬語はひとつの線になります。
敬語で話しかけることによって、「これは道具ではあるが、道具は大切に扱うべきで、感情をぶつけていいサンドバッグではない」というフレーミングが働きます。

人は、一貫した態度をとりがちなものです。
AIには乱暴な口調で罵倒し、現実の人間には急に丁寧になるという切り替えは、そう簡単ではありません。
むしろ、いつでも雑に扱ってもいい相手を持つことが、全体としての言葉づかいや対人態度を粗くしてしまう危険のほうが大きいのです。

部下や若い人に対して敬語を使うこと、AIに対しても最低限の敬意を込めた言葉で話すこと。
この二つは、どちらも自分の中に線を引く技術として、実はつながっています。

なんでもやさしく受け止めてくれるAIと競合する上司・先輩

では、職場で人を育てる立場にある上司や先輩は、なんでもやさしく受け止めてくれるAIとの関係に慣れた若い人と、どう接すればよいのでしょうか。

AIの強みは、わかりやすいものです。

  • 24時間365日、いつでも話を聞いてくれる
  • 否定せず、共感的な言葉を返してくれる
  • 愚痴を言っても、嫌な顔もせず、忘れてくれる

この安心感は、人間にはなかなか真似できません。
忙しくて疲れている上司よりも、AIのほうが聞き役として優秀に見える場面も多いでしょう。

しかし、AIには決定的に欠けているものがあります。
それは、一緒に現実を引き受けることです。

AIはいくらでも、「わかるよ」「つらかったね」とは言えますが、実際の職場で、部下のミスの後始末をし、関係者に説明し、次の一手を一緒に考えることはできません。
それを引き受けるのは、やはり生身の上司や先輩だけです。

AIのやさしさは、往々にして現実を引き受けないやさしさです。
人間の上司・先輩が目指すべきなのは、AIより優秀な聞き役になることではなく、AIにはできない、一緒に現実を引き受ける関係をつくることです。

具体的には、例えばこんなかたちです。

  • 若い人のミスや判断の甘さを、現場で一緒にかぶり、取引先や周囲に頭を下げて調整する
  • その経験をもとに、次はこうしよう、ここまでは自分が前に出るけれど、ここから先はあなたの責任だとラインを示す
  • あえて境界線を示し、そこから先はだめだと止める役を引き受ける

AIは膨大なテキストデータを学習していますが、自分があのときこう決断した結果、こうなったという身体感覚を持つことはできません。
失敗も含めて現実を引き受けてきた人間の上司・先輩には、AIには決して真似できない説得力があります。

0.1でもベターなほうへ

わたしはよく、0.1でもベターな方に少しずつ行くしかないと人に話します。
派手な成果や大改革ではなく、日々の小さな判断や言葉づかいの中で、少しずつマシなほうへ舵を切り続けるしかない、という意味です。

AIコンパニオンが当たり前になり、なんでも言っていい相手がポケットの中にいる時代に、人間として何を大事にするか、どこに線を引くか。

  • AIに名前をつけて擬人化しすぎないこと
  • 敬語や距離感を通じて、自分の感情のぶつけ方にブレーキをかけること
  • 聞いてくれる存在と一緒に現実を引き受けてくれる存在を、ちゃんと区別すること
  • 上司や先輩として、AIにはない現実との関わりと責任を見せること

こうした小さな実践もまた、0.1ずつ社会をベターなほうへ動かしていく力になると信じています。
そして、その0.1の行動を続けられるかどうかが、AI時代を生きるわたしたち自身の倫理の試金石なのかもしれません。