
上司から、休みの日や終業後にスマホへ次々と飛び込んでくる電話やチャット。
「たいした用事でもないのに、せっかくのオフが一気に仕事モードに引き戻される」
「通知が来るかもしれないと思うと、心のスイッチを切れない」
そんな声を耳にすることが増えました。
帝国データバンク(以下、TDB)の「つながらない権利」に関するアンケートでは、勤務時間外の連絡がある企業は全体の約7割にのぼります。
一方で、つながらない権利のルールを定めている企業は1割程度にとどまり、特に中小企業からは「ウチのような会社ではムリだ」「お客さま相手の商売だから現実的ではない」といった声が寄せられています。
では本当に、つながらない権利は中小企業ではムリなのでしょうか。
社労士として現場を見ていると、「ムリ」と感じるのには、それなりの理由がある一方で、「やり方さえ変えれば十分に可能なのに」と思う場面も少なくありません。
ここでは、つながらない権利の必要性や社会の動向と、中小企業で求めるのが難しい理由、そして、どうすれば実現できるのか、具体的にお伝えしていきます。
つながらない権利とは何か
つながらない権利は、「労働者が勤務時間外には仕事上の連絡から離れ、連絡に応じないことを選んでも、不利益な扱いを受けないよう保障される権利」です。
具体的には次のようなものです。
- 勤務時間外・休日には、原則として仕事に関する電話・メール・チャットに対応しないでいられること
- 連絡が来ても、見る・見ない、返す・返さないを自分で選べること
- 対応しなかったことを理由に、人事評価・昇進・配置転換などで不利な扱いをされないこと
この「勤務時間外は仕事から切り離される自由」と「応じないことを理由に不利益を受けない安心」が、つながらない権利の核になる部分です。
常に仕事とつながっていると起こる弊害
スマートフォンやチャットツールが普及し、テレワークも広がった結果、勤務時間外にもなんとなくつながっているのが当たり前になっています。
そのことが、メンタル不調や人材流出の一因になっている、というのが国際的な共通認識になりつつあります。
常に仕事とつながっている状態が続くと、いちばん問題になるのが「心理的デタッチメント(psychological detachment)」の欠如です。
心理的デタッチメントとは、本来オフの時間には頭や心を仕事から切り離し、「いまは仕事のことを考えなくてよい」という状態になれることを指します。
ところが、スマートフォンやチャットでいつでも仕事の連絡が入ってくると、通知が鳴るたびに仕事モードに引き戻され、心理的デタッチメントが妨げられます。
その結果、脳や身体を回復させる時間が不足し、ストレスの慢性化や情緒的消耗、いわゆるバーンアウト(燃え尽き)のリスクが高まることが、さまざまな研究で示されています。
また、勤務時間外のメールやチャットに「すぐ返さなければ」というプレッシャーを感じる状態は、テレプレッシャー(telepressure)と呼ばれます。
テレプレッシャーが強いと、常に通知を気にしてしまい、睡眠の質の低下や不安感の増大、仕事への敵意や離職意向の高まりとも関連することが報告されています。
海外ではすでに法制化が進んでいる
海外では、つながらない権利を法律で守る動きが先行しています。
- フランス:2017年に法制化され、従業員50人超の企業に対し、勤務時間外のメールなどデジタルツールの利用方法(いわゆるつながらない権利)について毎年労使協議を行うことが義務づけられました。
- ポルトガル:2021年の遠隔勤務に関する法改正で、原則として勤務時間外に従業員へ連絡することを禁止し、違反した場合は労働法違反として罰金の対象になりうると定められました(多くの解説では、一定規模以上の企業が対象とされています)。
- オーストラリア:フェアワーク法の改正により、2024年8月から従業員15人以上の企業に、2025年8月からは従業員15人未満の小規模企業にも、勤務時間外の連絡に対応しない権利(right to disconnect)が段階的に導入されました。
特にオーストラリアでは、現在は従業員15人未満の小規模企業も含めて、すべての企業がこの仕組みの対象になっています。
従業員は勤務時間外における雇用主や顧客からの連絡について、「対応しないことが不合理でない範囲」で、読む・返すことを拒否できるとされています。
一方で、罰則のないフランスでは、法律ができても十分な方針や運用を整えていない企業も多いと専門家から指摘されています。このことは、ルールをつくるだけでは不十分で、実効性ある運用と仕組みが必要だという教訓だと言えます。
日本ではどうなっているのか
日本では、2026年4月時点でつながらない権利を直接保障する法律はなく、罰則も設けられていません。
勤務時間外の連絡そのものを禁止する規定はありませんが、だからといって企業がノーリスクなわけではありません。
- 勤務時間外の電話やメール対応が労働時間と認定されれば、割増賃金の支払い義務が発生し、未払いであれば労基法違反となります。
- 深夜や休日に繰り返し連絡をする行為は、パワハラ防止法(労働施策総合推進法)のパワーハラスメントに該当する場合があります。
- 休息を妨げる状態が続けば、安全配慮義務違反として損害賠償のリスクもあります。
さらに、厚労省などの調査では、勤務時間外の連絡についてルールを整備していない企業が相当数存在し、TDB調査でもルールがある企業は全体の1割程度にとどまっています。
法制化はまだ先だから様子見でいい、と考えるほど、リスクは積み上がっているとも言えます。
中小企業が「ムリ」と感じる理由
中小企業からは「つながらない権利はムリだ」という声が出てくるのは、なぜでしょうか。
TDBのレポートでも、「業務の性質上、時間外連絡をなくすのは難しい」「人手が足りず、どうしても勤務時間外の対応が必要」といったコメントが見られます。
考えられるのは次のような事情です。
- 人数が少なく、一人ひとりの担当範囲が広い、属人化している
- 既存顧客からの急ぎの相談・トラブル対応が売上の生命線になっている
- シフトを組めるほど人員に余裕がない
- 人事・労務の専任担当がいないため、ルール設計まで手が回らない
こうした状況の中で、ポルトガルのように原則勤務時間外は一切連絡禁止、と言われると、「それはとても無理だ」と感じるのは自然な反応だと思います。
もちろん、海外と同じ厳格なモデルをそのまま輸入しなければいけないわけでありません。
中小企業には、中小企業なりの現実的な線引きと段階的な進め方があります。
「ゼロにする」のではなく「コントロールする」
中小企業でつながらない権利を考えるときには、時間外連絡をゼロにするのではなく、時間外連絡をコントロールする方向性が現実的です。
次のようなステップが、おすすめできる対応の一例です。
原則と例外を明確にする
原則:退勤後・休日は業務連絡をしない
例外:安全上の重大トラブル、システム障害、災害対応など真正な緊急時のみ
誰に・どう連絡するかを決める
全員に一斉に連絡するのではなく、当番者を決める
電話ではなく、まずはチャットで送信し、翌営業日対応を基本とする
出られなかったことを責めない風土をつくる
- ルールとして、時間外連絡に応じなかったことを理由に不利益を与えないと明文化する
- 管理職に対して、「自分が一番ルール違反をしやすい」という自覚を持ってもらう
これだけでも、「いつ仕事の連絡が来るかわからない」という緊張感がやわらぎます。
「ムリだから何もしない」ではなく、「できる範囲でどこまで線を引けるか」、考えてみましょう。
大企業と同じことをしなくてよい
TDBの調査では、上場企業など大企業の方が勤務時間外連絡のルールを整備している割合は高い一方で、実際には勤務時間外の連絡があると答える割合も高いという結果が出ています。
つまり、大企業だからといって、現場で完全につながらない状態を実現できているわけではありません。
大企業が取りやすいのは、次のようなアプローチです。
- 就業規則や各種規程に詳しく書き込む
- 労使協議を重ねて細かいルールを決める
- システム会社と組んでメール・チャット・電話の制御を行う
中小企業が、これと同じことを一気にやろうとすれば、負担が大きすぎて「ムリ」と感じて当然です。
むしろ中小企業だからこそ、社長・幹部が先に自分の行動を変える、シンプルな方針を決めて全員で守る、というやり方の方がフィットします。
たとえば、
- 社長・管理職は、原則として20時以降は部下に仕事の連絡をしない
- どうしても送る必要があるときは、「明日見てください」と明記し、返信を求めない
- 顧客・取引先に対しても、「○時以降は翌営業日の対応になります」と、あらかじめ案内しておく
といった、小さな一歩から始めることができます。
「ムリ」と切り捨てないこと自体がメッセージになる
TDBのレポートでも、つながらない権利に対応するルールを設けている企業はまだ少数派です。
だからこそ、たとえ完璧な仕組みでなくても、勤務時間外の連絡について一度きちんと職場で話し合ったという経験そのものが、従業員にとっては大きなメッセージになります。
海外のように法律で罰則が定められていなくても、現行法の枠内で企業が負っている責任は決して軽くありません。
そして何より、人材確保が難しい時代にあって、休むときはきちんと休める会社であるかどうかは、中小企業にとっても採用・定着の重要なポイントです。
「つながらない権利は中小企業ではムリだ」と言い切ってしまう前に、本当に変えられないのはどこか、少し工夫すれば変えられそうなところはどこか、経営層と現場で一緒に洗い出してみる。
その対話のプロセスこそが、つながらない権利を形だけでなく、会社の文化として根づかせる第一歩になると感じています。
海外では、中小企業も含めてつながらない権利を守る方向に舵を切る国が増えています。
日本でも、法制化のスピードに関係なく、現場から少しずつつながりすぎない働き方を模索していくことが、中小企業にとっても生き残りの戦略になっていくでしょう。






