ある日のこと、家電量販店のカウンターで、ひとりの女性客が店員に声をかけました。「先日購入したドライヤー、使い始めてすぐに動かなくなったんです。交換していただけませんか?」女性は丁寧な口調で、レシートも持参していました。
しかし、対応にあたった新人の店員は、最近のカスハラ対策研修で「顧客からの理不尽な要求には毅然とした態度を」と繰り返し教えられていたことが頭をよぎり、つい身構えてしまいます。
「お客様、そのようなご要望は当店の規定ではお受けできません」と、冷たく突き放すような言葉を返してしまいました。店員が自分の要望をどこにも取りつごうとせず、ただ拒否するばかりなので、最初はおだやかに話していた女性客もだんだん感情的になり、語気荒く「そんな対応でいいんですか? 責任者を呼びなさい!」と店員に詰め寄ってしまいました。
本来、店員が最初に事実確認と謝罪等、適切な対応をしていれば、顧客が感情的になることはなかったでしょう。しかし、カスハラ対策を誤解した店員が正当なクレームまで拒絶してしまった結果、顧客の不満が爆発してしまいました。最終的にはその場に居合わせた他の顧客が、SNSで「正当なクレームをカスハラ扱いされた」と拡散し、店舗の評判が急落する事態に発展しました。
このような事例は、カスハラ対策が進む現場で実際に起こり得るものです。従業員を守る意識が強まる一方で、正当なクレームまで排除してしまえば、顧客の信頼を失い、SNS時代の今、企業イメージの失墜や顧客離れなど深刻な影響を招きかねません。
カスハラ対策の法制化が決定
2025年6月、カスタマーハラスメント(カスハラ)対策を企業に義務付ける改正労働施策総合推進法が成立し、すべての企業にカスハラ防止のための体制整備が求められることとなりました。
具体的には、次のような対策が求められることになります。
1. 相談窓口の設置と体制整備
2. 社内ルール・基本方針の策定と周知
3. マニュアル作成と現場への浸透
4. 従業員教育・研修の実施
5. 再発防止措置・被害者ケア
6. 相談者・被害者への不利益取扱いの禁止
7. 証拠保全・記録管理
8. 業種・業態に応じた柔軟な対応
施行時期とガイドライン発表の見通し
改正法は公布日から起算して1年半以内の政令で定める日に施行される予定となっており、2026年中に施行される可能性が高い状況です。
施行までの間に、厚生労働省が事業主に求められる具体的な措置や対応内容を示した指針(ガイドライン)を策定し、公表することになっています。このガイドラインでは、カスハラの対象となる行為の具体例やそれに対して事業主が講ずべき措置の内容について明確化される予定です。
しかし、厚生労働省のガイドラインはあくまでも最大公約数的なもので、個々の企業・店舗の現状にフィットするとは限りません。
また、指針が発表されてから準備を始めたのでは、施行日までに十分な対応が間に合わない可能性があります。
企業にとっては、ガイドラインの公表を待つことなく、施行日までに自社の体制整備や従業員教育など、必要な準備を進めておくことが求められます。
カスハラと正当なクレームの線引きは?
企業に求められる対策の中で、最も重要なのが従業員教育です。
ただし、「精神的なプレッシャーを感じる顧客の言動はすべてカスハラ」という誤った意識を従業員に植え付けてしまうと、冒頭見たような、従業員の不適切な態度で逆にカスハラを生み出したり、正当なクレームをカスハラ扱いしてしまう危険性も高まっています。
では、どのようにしてカスハラと正当なクレームを見極め、バランスの取れた対応を実現すればよいのでしょうか。
まず大切なのは、両者の違いを明確に理解し、現場で判断に迷ったときの報告体制を整えることです。
正当なクレームとは、社会通念上妥当な要求や指摘を、冷静かつ合理的な方法で伝えるものです。たとえば、商品に不具合があった場合の交換希望や、接客態度への改善要望などが該当します。一方で、土下座の強要や暴言、脅迫、執拗な謝罪や補償の要求などはカスハラに該当します。
たとえば、顧客がやや強い口調で商品不良を訴えた場合でも、内容が正当であれば、まずは事実確認と謝罪、そして適切な対応を行うべきです。逆に、店舗側に落ち度があったとしても、顧客が「自分が要求した内容が通るまで帰らない」と居座ったり、過剰な補償を求めてきた場合は、毅然とした対応でエスカレートを防ぐことが必要です。
マニュアル・教育で押さえるべきポイント
1. カスハラと正当なクレームの「判断基準」を明文化
まず、どんな要求・言動がカスハラか、どこまでが正当なクレームか、具体例を交えて明記しましょう。判断に迷う場合は「一人で抱え込まずに必ず上司や専門部署に相談する」フローを設け、従業員に周知します。
2. 正当なクレームへの「感謝と誠実な対応」を徹底
正当なクレームをカスハラ扱いしないためには、顧客の指摘はサービス改善のチャンスであると教育する必要があります。
自分自身に責任のないことでも、顧客に対しては、店舗・企業の代表であるとの意識を持ち、苦情の内容を冷静に受け止め、事実確認と適切な謝罪・説明・改善を行うよう指導しましょう。
クレーム対応の初動で誠実な姿勢を見せることで、カスハラ化を防ぐ効果もあるのです。
3. SNS時代のリスクを理解させる
正当なクレームを軽視したり、排除してしまうと、SNSでの拡散リスクがあることを周知しましょう。
また、ネガティブな投稿が拡散した際の初動対応(事実確認・誠実な説明・公式見解の発信)もマニュアル化しておくとよいでしょう。
4. ケーススタディの実施
- 「従業員が苦痛を感じたが、実は正当なクレームだった」ケース
- 「初動対応が悪く、クレームがカスハラ化・炎上した」ケース
- 「毅然とした対応でカスハラを抑止できた」ケース
など、現場で起こりうる事例を用いた研修を実施すると効果的です。
カスハラ対策と誠実な顧客対応の両立こそが企業の信頼を守る
カスハラ対策の強化は、従業員を守るだけでなく、企業の信頼やブランド価値を守るためにも不可欠です。しかし、正当なクレームまで排除してしまえば、企業は顧客の信頼を失い、SNSでの炎上リスクも高まります。
従業員教育やマニュアル整備を通じて、現場で迷わない判断基準と、誠実な顧客対応の文化を根付かせていきましょう。
ガイドラインの発表を待つことなく、今から従業員教育や相談体制の整備、対応マニュアルの作成など、できることから着手していくことが求められます。「カスハラから従業員を守る」と同時に、「正当なクレームを誠実に受け止める」――この両立こそが、今の時代に求められる企業姿勢なのです。