
先日、国会において高市首相が「いま睡眠時間はだいたい2時間。肌にも悪い」と発言したことが話題となりました。トップリーダーが極端な睡眠不足に陥る状況は、日本社会に蔓延する睡眠課題の象徴とも言えます。日本は世界でも有数の“短時間睡眠国”とされ、多くの人が理想よりも不足気味な眠りの日々を送っています。
2025年の調査によれば、全国20~69歳の平均睡眠時間は「6.56時間」であり、世界13カ国中でも最下位でした。平日の睡眠は6~7時間未満が約35%、5~6時間未満も約32%。理想の睡眠時間は「7~8時間」と考えている人が多数派ですが、現実にはその確保が難しいことが調査結果からも明らかです。
特に働き盛り世代の7割が「7時間未満」の睡眠しかとれておらず、「5時間未満」と答えた人も1割に達します。慢性的な睡眠不足が恒常化している実態が浮き彫りになります。
首相の発言をきっかけに、日本社会が長年にわたって「覚醒に対する依存」に陥ってきたこと、そしてその文化的背景やリスク、職場や個人がどのように対処すべきか、社会保険労務士の視点から解説します。
「覚醒に対する依存」とは何か
厚生労働省の広報誌「厚生労働」(2025年3月号)では、筑波大学 国際統合睡眠医科学研究機構 機構長・教授の柳沢正史氏が、日本人の睡眠不足の根底には「覚醒に対する依存」があると指摘しています。頭では睡眠の重要性をわかっていながらも、「とにかく起きて、働いて、活動していたい」「眠る時間を最小限にして充実した時間を過ごしたい」という心理です。
この依存状態は、実は子どもの時期から始まるとされています。勉強や部活動に追われ、学生時代から「遅くまで起きている=努力している」という価値観が染みつき、大人になっても「寝る間を惜しんで頑張る」という行動パターンが続くのです。
覚醒依存を支えてきた日本の文化的背景――睡眠不足自慢のエピソード
日本では「寝ていない」「忙しい」「限界まで働いている」ことが美談や武勇伝として語られることが珍しくありません。
まず思い浮かぶのが、「四当五落(よんとうごらく)」という受験戦争時代のフレーズです。一日4時間の睡眠に抑えれば合格、5時間寝たら落ちる──50年以上前から、「眠らずに頑張る」ことが成功への絶対条件と強調されてきました。
バブル期には「24時間働けますか?」というドリンクCMがヒット。寝ないで働くことが仕事への情熱や根性を証明するものとして、社会的に広く称賛されました。
現代でも、「徹夜でプレゼン資料を仕上げた」「締め切り直前は3日間一睡もしてない」など、ビジネスシーンでの「寝てない自慢」や、医師・福祉職など現場仕事で「患者さんのために寝ずに働くのはプロの証」といった価値観が残っています。
日本人が「覚醒」への依存をやめられない理由は、単なる個人の習慣ではなく、歴史的・社会的な価値観に求められます。
日本社会には、勤勉を重んじる文化と、「結果は努力の量に比例する」「忙しい人ほど評価される」という社会的信念があります。また、集団主義の職場や学校では、「皆と同じように頑張る」ことへの同調圧力が強く、十分に寝ることが怠けや甘えと見られやすい面もあります。
このような価値観が、寝不足自慢や激務自慢といったエピソードにつながっており、「覚醒」依存は個人だけでなく社会全体に深く根を張っているのです。
しかし、その代償は想像以上に深刻です。
睡眠不足のリスク――「がんばり」ではカバーできないダメージ
科学的にも睡眠不足のリスクは明らかになっています。厚生労働省の同記事によれば、短期的には脳や身体のパフォーマンスが著しく低下し、一晩徹夜すれば酔っ払いと同等の判断力しか持てなくなります。
徹夜する人はそんなにいないかもしれませんが、1日4時間しか眠らない状態を5~6日続けるということはあるのではないでしょうか。この場合でも、完徹と同じくらいまでパフォーマンスが落ちてしまう、つまり「酔っぱらいと同等の判断力」になる場合があります。
国の舵取りをする首相が、「酔っ払い状態」で働いている可能性に思い当たり、背筋が寒くなるのは筆者だけではないでしょう。
また、睡眠不足の状態が続くと、体が慣れてしまい、昼間眠気を感じなくなるという調査結果があります。つまり、「わたしは5時間程度の睡眠でも問題ない」という誤った感覚に陥ってしまい、自分では気づかないうちに、仕事のパフォーマンスが落ち、それを平常運転だと勘違いしてしまうということが、日本中で起こっています。
さらに、長期間の睡眠不足は「睡眠負債」として蓄積し、肥満・高血圧・糖尿病などの生活習慣病、免疫機能の低下、うつ病・不安障害・認知症のリスク増大といった重大な健康被害をもたらします。
本来、十分な睡眠をとることでしか回復できない「心身のメンテナンス」を、我々は「覚醒への依存」で犠牲にしてきたのです。
人間関係にもダメージを与え、パワハラの危険性も高まる
睡眠不足のリスクは健康への悪影響だけではありません。
集中力・記憶力・判断力が鈍ることから、本来その人が持っている能力が発揮できなくなり、職場での生産性が落ちてしまいます。
また、感情のコントロールがきかなくなり、次のような状態に陥りやすくなります。
- すぐに怒鳴る、切れやすくなる
- めんどうなことは、途中で投げ出すか、だれかに押し付ける
- 自分自身の体験や考えに固執する
- 周りの状況に無関心になり、自己中心的な主張を繰り返す
職場の同僚との人間関係が壊れるきっかけになるようなことばかりです。また、このような状態の人が管理職であれば、パワハラ行為を行う危険性が高まります。
筆者は、ハラスメント事案発生の際のヒアリング調査を多数請け負った経験があり、多くのハラスメント行為者と面談しています。「最近眠れていますか?」と尋ねると、多くの人から「睡眠不足はわかっているが忙しくてどうしようもない」「なかなか寝付けない」「早朝に目が覚めてしまい、その後眠れない」等の答えが返ってきます。忙しくて睡眠不足となるだけでなく、ストレスの影響で不眠症状も起こりやすく、平常心を失って上で挙げたような「パワハラ上司」に特徴的な行動に走っている可能性も見逃せません。
職場ぐるみで睡眠不足対策を
睡眠不足は日本社会の価値観に根ざしており、個人の努力だけでは解決しにくい社会的な課題でもあります。だからこそ、職場と個人の両面からアプローチすることが大切です。
職場では次のような対策が考えられます。
(1)残業削減・業務量の見直し
働き方改革の一環として業務効率化を図り、残業を減らすことで睡眠時間確保を促します。定時退社デーの設置や業務分担の見直しが有効です。
(2)睡眠教育・健康セミナーの実施
睡眠の重要性や健康との関係について社員向けに研修・セミナーを開催することで、「寝ることは怠けではない」という意識を広げられます。
(3)柔軟な勤務時間・テレワークや勤務間インターバル制度の導入
フレックス勤務やリモートワークを導入することで、通勤や生活リズムに合わせて質の高い睡眠がとれる環境づくりが可能です。また、勤務間インターバル制度を導入することも、睡眠時間の確保に有効だと言われています。
(4)パワーナップ(昼寝)の導入
短時間の昼寝(10〜20分)を推奨したり、昼寝スペースを設けることで、午後のパフォーマンス低下を防ぎます。
(5)健康経営の導入と評価
睡眠リスクの低減を労務管理や人事評価の一指標に加えることで、企業風土そのものの改善に繋げます。
個人でできる睡眠不足脱却の取り組み
もちろん、睡眠というプライベートな部分を改善するには個人個人の取り組みもかかせません。次の提案をヒントに、自分に合った方法を探してみましょう。
(1)就寝・起床時間の固定
なるべく毎日同じ時間に寝起きする習慣をつけることで、体内時計が整い、入眠しやすくなります。
(2)就寝前のスマホやカフェインを控える
寝る前に強い光や刺激物を避けることで深い睡眠に入りやすくなります。スマホやパソコンの利用は就寝1時間前をめどに控えましょう。
(3)寝室環境の整備
遮光カーテン、適温(16〜19度程度)の維持、静かな環境など、五感をリラックスできる寝室作りがポイントです。
(4)適度な運動を生活に取り入れる
日中に少しでも体を動かすことで夜の寝つきがよくなり、睡眠の質も上がります。
(5)「自分は睡眠が必要だ」と認めるマインドセット
「忙しいから仕方ない」と諦めず、自分の健康と生産性のために睡眠を最優先事項にする意識転換も重要です。
「覚醒への依存」から脱却し、健康で幸福な社会をめざすために
必要な睡眠時間には個人差があり、加齢や体調によっても変わりますが、「自分に本当に必要なだけ眠る」ことこそが心身の健全さ、ひいては仕事や学び、人生の成果につながります。実際、多くの人が1週間だけ睡眠時間を30分〜1時間増やすと、想像を超えるほど日中のパフォーマンスや気分の違いに気づくはずです。
十分な睡眠は、単なる「休み」ではありません。人生の土台の一部です。子どもから大人まで、本気で社会全体が「よく眠ること」に価値を置けるようになれば、創造性や幸福度、健康寿命もきっと大きく伸びるでしょう。






