
「コンプライアンスを守っていたら、中小企業は潰れてしまう」。
トラック運転手の隠れ残業を扱った記事の最後に、そんな趣旨の声が紹介されていました。
長時間拘束、荷待ちを休憩扱い、出退勤時刻の操作による残業隠し――現場では、労働基準法を守るか、会社を存続させるか、という、二者択一のような空気すら漂っています。
よく考えてみれば、これはおかしな話です。
「労働法を守ると会社が潰れる」ということばは、言い換えれば「人間が過重労働で潰れるのはやむを得ない」という宣言でもあります。本来なら経営が成り立たない水準の価格で受注し、その赤字を従業員のサービス残業で埋めている――そのような会社は、ビジネスモデルとして成立していない、ということにほかなりません。
労働法を守れない中小企業はいっそ退場すべきなのか
「そんな会社は退場してもらって、もっと生産性の高い企業に人材を移したほうが社会全体のためではないか」
こうした議論にも一理あります。
実際、安値受注と長時間労働で何とか成り立っている企業は一定数存在します。
労働者の健康や生活を代償にして価格競争力を保っているという構図です
一方で、大企業ばかりの寡占状態になれば、別の歪みも生まれます。
地域に根ざした小さな運送会社、顧客の細かなニーズに柔軟に対応する中小企業の存在は、経済全体にとっても重要です。
ニッチなニーズへの対応、災害時の融通、きめ細かなサービスなど、小回りが利くという中小企業の特性が、社会的価値になっている場面は多くあります。
「労働法を守れない中小企業は潰れてしまえ」という乱暴な結論に飛びつくのではなく、人を使い潰さずに、なおかつ中小企業として生き残る道を考える必要があります。問題は中小企業であることではなく、人件費をコスト削減の最後の調整弁にしてきた構造のほうにあります。
中小企業はもともと人件費でいっぱいいっぱい
中小企業が「コンプライアンスを守ったら利益が出ない」と感じやすい背景には、そもそも人件費が経営を圧迫しやすい構造があります。
付加価値に対する人件費の割合(労働分配率)で見ると、規模が小さくなるほど比率が高くなり、利益として残る余地が少ない傾向がはっきり出ています。
中小企業庁「2025年版 小規模企業白書」よると、付加価値に占める人件費(労働分配率)は企業規模によって次のような水準だとされています。
- 大企業:46.4%
- 中規模企業:64.3%
- 小規模企業:75.5%
売上から材料費などを引いた付加価値のかなりの部分が人件費で消えてしまうため、残業代をきちんと支払えばたちまち赤字、というギリギリの経営をしている会社が少なくありません。
人手不足が深刻化する中で、中小企業の人件費は近年も増加傾向にあり、それでも価格転嫁が十分に進まない、という指摘もなされています。
つまり、「人件費をこれ以上増やせない」という感覚自体は、単なる泣き言ではなく、統計的にも裏付けのある現実です。問題は、その現実への向き合い方です。
解決策は値上げという、当たり前で難しい話
では、中小企業はどうしたらよいのでしょうか。
人件費率がそもそも高く、これ以上内部努力でどうにかする余地が乏しいのであれば、残された選択肢はそれほど多くありません。端的に言えば、適正なコストが反映された価格で仕事を受ける、つまり 値上げするしかないのです。
トラック運送業でいえば、
- ドライバーを法定労働時間内で働かせる
- 荷待ちや荷役も労働時間としてカウントし、賃金を支払う
- 拘束時間が長くならないよう運行計画を見直す
これらを前提にした運賃体系に変え、取引先に了承してもらう必要があります。
残業代を支払うかどうかは善意やがんばりの問題ではなく、その水準の人件費を前提に価格が設定されているかどうか、という経営判断の問題です。
「そんなことをしたら仕事が来なくなる」という声もあるでしょう。
しかし、今はドライバー不足をはじめ、人手不足で需要が逼迫している時代です。人がいなければ荷物は運べません。人を使い潰す前提でしか成立しない価格なら、その仕事はそもそも受けるべきではないのかもしれません。
政府もすでに、賃上げや働き方改革で増えた人件費を取引価格にきちんと転嫁するよう後押ししています。
内閣官房と公正取引委員会が公表した「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」では、賃上げ原資の確保も含めて、労務費を反映した価格交渉を行うための行動指針と事例が示されています。
消費者として値上げをどう考えるか
適正な人件費を前提とした値上げが進めば、そのコストは巡り巡って消費者である私たちの負担になります。
運送会社が運賃を上げれば、メーカーや小売の物流コストが増え、商品の価格に上乗せされます。今よりも、宅配便の送料がはっきりと高く感じられるようになるかもしれません。
それでも、ここで考えたいのはどちらがましなのかという問いです。
- いまの価格のまま、トラックドライバーが疲弊し、若い人が入ってこなくなる
- やがてドライバー不足で物流が動かなくなり、ちょっと荷物を送りたくても1週間、10日待つのが当たり前になる
- ほしい品物が店にないことが増える
という社会と、
- 物流コストは上がり、運賃や商品の価格は今より高くなる
- ドライバーが健康を守りながら働き続けられる
- 物流サービスが安定的に提供される
という社会、このふたつのどちらを選ぶのか、という問題です。
安さは魅力ですが、その裏側に誰かの長時間労働と誰かの過労死のリスクが貼り付いているとしたら、それを当然の前提としてよいのかどうか。私たち消費者一人ひとりも、問われています。
そして、消費者もまた、その大半が労働者です。
「値上げするな」ではなく、「物価が上がっても生活できるように、賃金を上げろ」と、要求の方向性を変えていくべきでしょう。
人を潰さない経営にシフトするために
雇用管理の現場から見ると、「コンプライアンスを守ったら潰れる」というセリフは、多くの場合「これまでのやり方を変えたくない」という本音の裏返しでもあります。
たしかに、値上げ交渉は勇気がいりますし、取引先に頭を下げる必要も出てきます。場合によっては、長年の取引を見直す決断が必要になるかもしれません。
それでもなお、法令順守と会社の存続を対立軸として捉えるのではなく、法令順守を前提に事業モデルを作り直すことが経営の仕事です。
具体的には、
- 採算割れの案件を切る、値上げ交渉をする
- 非効率な業務プロセスを見直し、無駄な待ち時間・手作業を削る
- 付加価値の低い仕事から、高単価な仕事に少しずつ軸足を移す
- 協業・共同配送など、他社との連携でコストを分担する
といった、一つひとつの地道な取り組みが欠かせません。
人件費を削るのではなく、人件費を適正に払っても残るだけの利益をどう確保するかを考えることが、これからの中小企業経営に求められる視点なのです。
誰の犠牲の上に成り立つ価格なのか
トラック運転手の「隠れ残業」問題は、単なる一業界の特殊な話ではありません。
安さや便利さを追求してきた私たちの社会が、どこまで人の時間と健康を見えないコストとして無視してきたのか、映し出す鏡でもあります。
労働法を守ると会社が潰れるのなら、それは守らない前提でしか成り立たない価格設定を続けてきた証拠です。
潰れていいのは人間ではなく、ビジネスモデルのほうだ、と私は考えます。
中小企業には、中小企業だからこその強みがあります。
その強みを活かしながら、人を使い潰さない働き方に舵を切るためには、値上げを恐れず、適正な対価を求めるという一見シンプルで、実は非常に難しい決断が必要です。
そして、私たち消費者もまた、「誰の犠牲の上に成り立つ安さなのか」を意識しながら、少し高い運賃や価格を受け入れていくことが求められているのではないでしょうか。
トラックドライバーがいなければ、私たちの生活は一日として成り立ちません。物流を支える人たちが、健康を守りながら働き続けられる社会をどう作っていくか――それを考えることは、結局は自分たちの暮らしを守ることにもつながっていくはずです。






