企業でハラスメント事件が発生すると、SNSでは「すぐに懲戒解雇にしろ」「甘い処分では済まされない」といった声が上がることがよくあります。一般的に、会社は問題社員を自由に処分できると思われがちですが、実際の法的現実は大きく異なります。

労働契約法第15条により、懲戒処分は「客観的に合理的な理由」と「社会通念上の相当性」の両方を満たさなければ無効となります。感情的な世論に流されて安易に重い処分を下せば、後に多額の損害賠償を請求される可能性があります。

社会保険労務士として多くの企業のハラスメント対策に携わってきた経験から、懲戒処分の判断がいかに複雑で慎重な検討を要するかを、具体的な判例と実務のポイントを交えて解説します。

懲戒処分が無効とされた代表的判例

事例1:群馬大学パワハラ事件(前橋地裁 平成29年10月4日判決)

事案の概要
大学教授が部下9名のうち5名からパワハラ被害の申告があり、そのうち4名が退職あるいは精神疾患に罹患したことを理由に、大学が懲戒解雇処分を行いました。教授は連日にわたって長時間、廊下を隔てた別の部屋にまで聞こえるくらいの大声で部下を叱責していました。

裁判所の判断
前橋地方裁判所は懲戒解雇を無効と判断し、大学に約1900万円の支払いを命じました。

無効とされた理由
業務上の必要性が全くないわけではなく、ことさらに嫌がらせをする目的があったわけでもない点、過去に懲戒処分を受けたことがない初犯であり、ハラスメントの一部を認めて反省の意思を示している点が考慮されました。

事例2:セクハラ懲戒解雇事件(東京地裁 平成21年4月24日判決)

事案の概要
慰安旅行の酒席において、東京支店長が女性従業員に対してセクハラ行為を行ったことを理由に、会社が懲戒解雇処分を行った事案です。

裁判所の判断
東京地方裁判所は処分が重すぎるとして懲戒解雇を無効と判断し、会社に対して約1300万円の支払いを命じました。

無効とされた理由
酒席でのセクハラ行為であっても、懲戒解雇という最も重い処分は相当性を欠くと判断されました。

損害賠償が高額になる理由

とくに解雇の有効性について争う場合、解雇無効と判断されると、実際には仕事をしていないにも関わらず、解雇日に遡って賃金(バックペイ)が発生します。裁判は1年以上かかる場合が多く、バックペイは高額になりがちです。

懲戒処分の判断における重要ポイント

1. 行為の悪質性の評価

懲戒処分を検討する際、最も重要なのは行為の客観的悪質性を正確に評価することです。身体的接触の有無、暴力や脅迫を伴っていたか、犯罪行為に該当するレベルかといった点を慎重に検討する必要があります。

また、一回限りの行為か継続的な行為か、注意を受けた後も続けていたか、常習性があるかといった継続性・反復性の観点も重要です。

さらに、業務との関連性についても十分な検討が必要です。業務上の指導の範囲内であったか、業務上の必要性があったか、単なる嫌がらせ目的であったかといった点を客観的に判断することが求められます。

2. 加害者の地位・職責

加害者が管理職である場合、部下を指導する立場にあることからより重い責任を負い、組織全体への影響も大きくなります。

3.会社の予防措置の取組状況

会社の予防措置の取組状況も重要な判断要素となります。研修を受けていたか、会社の方針に反する行為であったか、過去に指導を受けていたかといった点が処分の相当性判断に大きく影響します。

4. 被害の程度・影響

被害者への影響を具体的に把握することも不可欠です。精神的苦痛の程度、医療機関の受診の有無、退職に至ったかといった個人への影響に加え、被害者はひとりだったか複数だったかも確認します。他の従業員への影響、業務運営への支障、組織の信頼失墜といった職場環境への影響も総合的に考慮する必要があります。

ただし、被害が深刻であっても、それだけで重い処分が自動的に正当化されるわけではありません。群馬大学事件のように、深刻な被害が発生していても、加害者の事情や行為の動機等を総合的に考慮して処分の相当性を判断することが求められます。

5. 処分の相当性

事前の指導や注意の実施、軽い処分から重い処分への段階的な対応が適切に行われていたか、いきなり重い処分を行うことの危険性を十分に検討する必要があります。また、初犯か再犯か、同種事案での処分例との均衡、処分後の反省の態度といった過去の処分歴も重要な判断要素となります。

実務上の注意事項

就業規則の整備

懲戒事由の明確化、処分の種類と基準の明示、手続きの詳細な規定といった就業規則の整備が不可欠です。明確な基準がなければ、処分の客観的合理性を立証することが困難になります。

証拠収集の重要性

懲戒処分を有効にするためには、客観的な証拠の収集が不可欠です。被害者からの詳細な聞き取り、目撃者の証言、メールやSNSの記録、日時・場所の特定などを通じて、事実関係を客観的に把握することが求められます。

適正な手続きの実施

弁明の機会の付与、懲戒委員会等での慎重な審議、処分理由の明確化、段階的処分の検討といった適正な手続きの実施も重要です。手続き上の瑕疵があった場合、処分が無効とされるリスクが高まります。

企業が陥りやすい落とし穴

1. 事実認定の不十分さ

感情的な判断で処分を急ぐあまり、十分な事実確認を怠ることで、処分の根拠が崩れる可能性があります。

2. 処分の均衡性の欠如

同種事案での処分例との比較を怠り、特定の事案のみ重い処分を下すことで、不平等な扱いとして無効とされる危険があります。

3. キーパーソンへの配慮によるリスク

ハラスメントの事実を把握していても、行為者が職場のキーパーソンである場合、業務への影響を恐れて処分しないことがままあります。しかし、このような対応は被害者を追い詰める結果となり、特に若い層が会社に不信感を持つ危険性があります。世代間の価値観の違いから、若手社員はハラスメントに対してより敏感であり、会社の対応が不十分だと感じた場合、組織全体に対する信頼を失い、優秀な人材の流出につながる可能性があります。

まとめ:専門家への相談の重要性

ハラスメント事案における懲戒処分の判断は、法的専門知識と豊富な実務経験が必要な高度に専門的な領域です。客観的合理性社会通念上の相当性を両立させる適切な処分を選択するためには、以下の点が重要です:

  • 事実関係の客観的な把握
  • 法的基準に基づいた処分の相当性判断
  • 適正な手続きの実施
  • 過去の判例や処分例との比較検討

これらの複雑な判断を企業単独で行うことは困難であり、民事裁判に持ち込まれることで処分無効となるリスクを最小化するためには、労働法に精通した社会保険労務士や弁護士等の専門家への相談が不可欠です。

適切な専門家のサポートを受けることで、被害者の救済と加害者への適正な処分、そして企業の法的リスクの最小化という3つの目標をバランスよく達成することが可能になるのです。