きのうのエントリーにつけてもらった、Gさんのツッコミについて。コメント欄に書こうとしたら、えらい長くなったので、エントリーたてました。
「通名」というものに対して在日コリアンが抱いている感覚、というのは、「ふつうの日本人(という言い方は好きではないのですが)」にとってもっとも分かりづらいもののひとつかもしれません。自分も、理屈ではなんとなく分からないではないような気がしなくもないけれど、感覚的につかんでいるかというとそうでもなく、どう言葉で表現したら良いか分からなくなってしまいます。
「在日コリアンの感覚」といっても、千差万別なのはもちろんですが、(ぐるぐるさん自身はそんなこと百も承知でしょうけど、読んでる他の人のために、念を入れてます。)民族教育を受けた人と、わたしのようにずっと日本の教育しか受けたことのない人の感覚というのは、やはり大きく違うと思います。要するに、民族教育を受ければ、その中で「本名」で呼ばれるので、「本名」が実際に名前として内実化されるけど、そうじゃない人にとっての「本名」はほとんど実態のない、書類上のものにしかすぎない場合が多い、ということです。
民族教育を受けていない三世の話、という限定をつけて、わたしの経験を書きましょう。
「通名」を使っている在日の名付けのしかたにはいくつかのパターンがあって、ひとつは、日本名と民族名という形で、最初からふたつの名前をつける場合。もうひとつは、日本名しかつけず、それをそのまま読み替えて「本名」とする場合。みっつめとして、民族名をつけ、それを日本の名字にそのままくっつけて、日本名とするやり方。さらに、韓国語でも日本語でも同じ読みになる名前をつけて、共通に使う、というやり方もあります。
わたしの場合は、二番目で、実は民族名というのは最初からないのです。日本名が優先か、と驚かれるかもしれないけど、在日の、とくに女性にはけっこうこのパターンが多くて、父の兄弟など、父や叔父たちは日本名と民族名のふたつがあるけど、叔母は日本名のみ。母の兄弟もそうで、あきらかに女の子は雑に扱われてます。わたしの兄弟は、わたしだけでなく、妹も弟もこのパターンだから、まだ男女平等ですねぇ。
話がそれましたけど、将来子供が「本名」を使うだろう、なんて親はあんまり思ってなかった、というのは、この話からもわかると思います。
高校を卒業後、「通名」から「本名」にした経緯は、以前に詳しく書いたんですが、この中に書いてないことがあり、大学に入学したときに学籍簿に登録した名前は、本名を日本語読みしたものだったんですね。「이영향」という発音は、そのころ、自分にとってまったくリアリティがなく、とても自分だとは思えない、ということで、こういう風にしたような覚えがあります。だいたい、韓国語はぜんぜんできなかったので、カタカナで読んでるだけで、正確な発音も知らなかったし。まさにわたしにとって、名前だけではなく、民族性なんて遠いものでした。
それなのに、なぜ「通名」をやめて、曲がりなりにも「本名」にしたかというと、「自分を偽らずに生きたい」ということなんでしょうね、やっぱり。だから、きのうのリンク先の同胞女性の書かれていることは、わかりすぎるほどよくわかります。(←このリンク先は、現在プライベートモードになっていて、閲覧できません 2016/08/26追記)
でも、日本名で過ごした時期も、もちろんわたしの人生の一部分であるし、その名前を呼んで、親が自分を慈しんでくれたことは大事にしたいと思っています。
そういう意味で、「通名」に愛着を感じ、その名前をずっと使い続けていくことも、わたしはそれを選ばなかったけれど、人間として当然のことだし、なんら非難されるようなことではないでしょう。
もともと、立派な韓国人になりたい、という気持ちはあまりなかったような気がします。韓国に生まれ育った韓国人が「正当な韓国人」で、こっちはどうがんばっても二流かよ、というあほらしさは、当時から感じていたし。
これは、「二流の日本人」に関しても、同じように思っていましたし、いまも思っていますけど。
生まれつき、「正当な○○人」という存在から隔てられたものから見れば「正当」とか「ちゃんとした」という概念自体が、ものすごーくうさんくさいものなのです。もちろん、そういう、まさに教条的な民族主義を体現して、「在日は本名を名乗るべき」とか「韓国語もちゃんと勉強するべき」みたいな人はいっぱいいますけど、そういうのは好きじゃないのです。そうじゃなくてもいろいろタイヘンなのに、同胞同士で相手を抑圧してどうするんでしょうね。
わたしは本名をなのっているし、言葉もそれなりに勉強しましたが、それはりっぱな韓国人になるためではないし、そうしない人たちに圧迫感を与えるようなものの言い方はしないように気をつけているつもりです。うまくいっているかどうかわからないけど。
ひとつ言えそうなのは、、在日コリアンが「本名」を名乗るということが、ある種の(あまり現実に則していない)ロマンチシズムを伴って語られているのかもしれない、ということ。「民族名を名乗り、誇り(アイデンティティ)を取り戻す」みたいな、図式というか「物語」が、完全な虚構だとは言えないのでしょうが・・・スミマセン、やっぱりうまく言葉にできません。^^;
いままで使い続けていた名前をかえる、というのは、かなりエネルギーのいることなので、そういう「物語」がそのスプリングボードになることは、多々あるし、そういう意味では、おっしゃるとおり完全に虚構ではありませんよね。
わたしの場合、「本名」を使っている背後にあるのは、「民族」という大きな物語よりも、わたしの祖父母が日本で苦労してきた跡を残したい、という気持ちかもしれません。これも、もちろんひとつの物語にすぎないわけですが。