政治家と柔道家という“二足のわらじ”は難しいという周囲の声については「欧州では仕事を持ちながら政治をする人もおり、二足のわらじという考えは了見が狭い考え」と一蹴した。
谷氏引退に小沢氏同席 “二足のわらじ”難しいは「了見の狭い考え」(柔道) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース(リンク切れ)
谷亮子といえば、柔道と政治活動の「二足のわらじ」とさんざん言われてきたのだが、彼女について「三足のわらじ」と表現した人がいて、最後の一足はなんだろうと思ったら、それは「母親」ということなのだった。
「ママでも金」という言葉を繰り返して、自分から母親であることを、下品な言葉でいえば「ウリ」にしてきた人なのだから、そう見られてしまうのもしかたないかもしれない。
だが、表舞台に立つ既婚女性は、自分で売り込む売り込まないに関わらず、常に、妻として、母として、家庭人としての顔を問題にされる。仕事で成果をあげ、周りからの評価も高い男性に対して「いい父親であるか、いい夫であるか」が問われることは、女性に比べると、ないに等しい。
勝間和代が、家庭に問題があるとかないとかいうことを週刊誌等で書きたてられたとき、「ああ、またか」と思った。持ち上げては引きずり下ろす、というのがマスコミの通弊とはいえ、女性の場合は、仕事や主張ではなく、家庭を問題にされるのである。何度も見た、そして何度見てもうんざりする光景だ。
男性の場合は、逆に、家庭を顧みずに仕事に邁進する姿が、美談として語られたりする。そして、その横には、家に帰ってこない夫を黙って待ち、家庭を支える妻が、ワンセットでついてくるわけである。もちろん、そういう夫婦をくさしているのではなく、それを美談として消費する社会の眼差しに違和感を感じる。
男性にはない、別の観点で評価されることは、女性にとって大きな負担となる。それを逆手にとって商売のネタにするということもあるが、だからといって負担がなくなるわけではない。そして、世間の目は、別の観点で評価することが正当かどうか、ということではなく、評価されるべき基準がクリアされているかどうかというところに集まる。美人かどうか。良妻賢母かどうか。それはそのほうがいいのかもしれないが、それって、仕事と関係ないよね。
どこかで見たような構図である。
朝鮮学校を高校無償化の対象にするか、という問題において、これとまったく同じことがくりかえされている。
ほかの各種学校は、なにも審査されない。また、ほかの外国人学校もなにも審査されない。同じく日本と国交がない、台湾系の学校も審査されない。だが、朝鮮学校のみが教育内容、それも、「高等学校と同等の教育をしているか」という観点でなく、「北朝鮮を美化称揚し、日本を批判しているか」という別の観点が持ち込まれている。
そして、恣意的に持ち込まれた、本来の高校無償化の目的とはなんの関係もない、そのような観点に、朝鮮学校がかなっているかどうか、という点が注目される。教室に金正日の肖像を飾ることが不適当だと思えば、それは批判すればいい。だが、高校無償化の問題で、そういう評価軸を勝手につくってそれをクリアできなきゃだめ、などというのは、明らかにおかしいのだが、「北朝鮮」と関係があるといえば、なにをされてもしかたない、という世論ができあがってしまっている。
そんなところで朝鮮学校をいじめたところで、拉致問題の解決とはまったく関係ないにも関わらず。
評価とは、常に上から下にやってくる。そして、評価する側が問われることはほとんどない。評価という言葉は、なにか正当性を感じさせるが、ここで行われていることは、仕事や教育など、本来果たすべき役割への評価ではなく、無責任な品定めである。
マジョリティには問われない、恣意的な基準で品定めされる続けること、それがマイノリティであることの意味なのかもしれない。