Green Fish

個人的なあれこれ。

2010年10月16日
から greenfish
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つねに品定めされるわたしたち

政治家と柔道家という“二足のわらじ”は難しいという周囲の声については「欧州では仕事を持ちながら政治をする人もおり、二足のわらじという考えは了見が狭い考え」と一蹴した。
谷氏引退に小沢氏同席 “二足のわらじ”難しいは「了見の狭い考え」(柔道) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース(リンク切れ)

谷亮子といえば、柔道と政治活動の「二足のわらじ」とさんざん言われてきたのだが、彼女について「三足のわらじ」と表現した人がいて、最後の一足はなんだろうと思ったら、それは「母親」ということなのだった。

「ママでも金」という言葉を繰り返して、自分から母親であることを、下品な言葉でいえば「ウリ」にしてきた人なのだから、そう見られてしまうのもしかたないかもしれない。

だが、表舞台に立つ既婚女性は、自分で売り込む売り込まないに関わらず、常に、妻として、母として、家庭人としての顔を問題にされる。仕事で成果をあげ、周りからの評価も高い男性に対して「いい父親であるか、いい夫であるか」が問われることは、女性に比べると、ないに等しい。

勝間和代が、家庭に問題があるとかないとかいうことを週刊誌等で書きたてられたとき、「ああ、またか」と思った。持ち上げては引きずり下ろす、というのがマスコミの通弊とはいえ、女性の場合は、仕事や主張ではなく、家庭を問題にされるのである。何度も見た、そして何度見てもうんざりする光景だ。

男性の場合は、逆に、家庭を顧みずに仕事に邁進する姿が、美談として語られたりする。そして、その横には、家に帰ってこない夫を黙って待ち、家庭を支える妻が、ワンセットでついてくるわけである。もちろん、そういう夫婦をくさしているのではなく、それを美談として消費する社会の眼差しに違和感を感じる。

男性にはない、別の観点で評価されることは、女性にとって大きな負担となる。それを逆手にとって商売のネタにするということもあるが、だからといって負担がなくなるわけではない。そして、世間の目は、別の観点で評価することが正当かどうか、ということではなく、評価されるべき基準がクリアされているかどうかというところに集まる。美人かどうか。良妻賢母かどうか。それはそのほうがいいのかもしれないが、それって、仕事と関係ないよね。

どこかで見たような構図である。

朝鮮学校を高校無償化の対象にするか、という問題において、これとまったく同じことがくりかえされている。

ほかの各種学校は、なにも審査されない。また、ほかの外国人学校もなにも審査されない。同じく日本と国交がない、台湾系の学校も審査されない。だが、朝鮮学校のみが教育内容、それも、「高等学校と同等の教育をしているか」という観点でなく、「北朝鮮を美化称揚し、日本を批判しているか」という別の観点が持ち込まれている。

そして、恣意的に持ち込まれた、本来の高校無償化の目的とはなんの関係もない、そのような観点に、朝鮮学校がかなっているかどうか、という点が注目される。教室に金正日の肖像を飾ることが不適当だと思えば、それは批判すればいい。だが、高校無償化の問題で、そういう評価軸を勝手につくってそれをクリアできなきゃだめ、などというのは、明らかにおかしいのだが、「北朝鮮」と関係があるといえば、なにをされてもしかたない、という世論ができあがってしまっている。

そんなところで朝鮮学校をいじめたところで、拉致問題の解決とはまったく関係ないにも関わらず。

評価とは、常に上から下にやってくる。そして、評価する側が問われることはほとんどない。評価という言葉は、なにか正当性を感じさせるが、ここで行われていることは、仕事や教育など、本来果たすべき役割への評価ではなく、無責任な品定めである。

マジョリティには問われない、恣意的な基準で品定めされる続けること、それがマイノリティであることの意味なのかもしれない。

2009年4月12日
から greenfish
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マイノリティがかわいそう、じゃなくて


元詐欺師・逮捕歴有りの新風のオヤジが在日韓国人青年に喧嘩売る→ぶっ倒され泣き言(笑) – dj19の日記
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道を歩いていてヘイトスピーチを否応なく耳にすることが、これからあるかもしれない、という可能性に思い至って、かなり頭が痛い。宇都宮でも、昨年似たような団体(というか、構成員はだいぶかぶっているようだが)が、宣伝活動をしていたらしい。この動画に出てくる宇都宮地裁前なんて、三日にあげず通っている。

そういう場面に遭遇したら、いったいどうしたらいいんだ? 耳をふさいで通り過ぎる? 抗議する? ひとりなら自分ひとりの問題なのだが、子供を連れていたりしたら、子供にどうやって説明したらいいんだろうね。

冷静に、とか、毅然として、とか、口で言うのはたやすいのだが、実際にはそんなにかっこよくいくものではない。まあ、心の準備がないよりは、あったほうがまだ少しは適切に行動できるかもしれない、ということで、この時点でそういう暗い将来を思い描ける、ということは、まだよかったのかもしれない。

ところで、この記事に、わたしがつけたブックマークコメントである。

公の場でのヘイトスピーチを取り締まる法律がないことのほうが問題。/警官に取り囲まれ、連行される青年が自分の息子のように見えて涙出た。/はてなブックマーク – 2009年4月9日

このコメントには、いままで覚えがないほどの、たくさんの はてなスター(おそらくは同意の印)をいただいた。

わたしは、在日朝鮮人で、この動画に映し出された青年と似たような年頃の息子がいる。そういう個人的な事情はなくても、民族的な罵倒を行う相手につかみかかった青年が、孤立無援のまま、警官に連行されるのを見て胸が痛む、という心情には、共感を呼ぶところが多いのだろう。青年の行動に対しても、単純に「暴力」ととらえていいのか、という見方が多いように思える。まあ、それ自体は、確かに心強いことではある。

しかし、このたくさんの「はてなスター」は、ヘイトスピーチに対する法的規制の必要性についての、同意の印でもあるのだろうか?

簡単に同意できるような問題ではないことは、よく知っている。表現の自由への侵害、ということだけでなく、規制が権力の側の都合のいいように使われる、ということへの恐れを語る人が多いのも、わかる。わたしのように、現実的に自分が被害を受ける可能性のない人が、そこで止まってしまうのも、わからないではない。

でも、ヘイトスピーチの被害を受けるのは、そのターゲットにされている、マイノリティだけなんだろうか。民族的対立をあおることは、社会の治安に対する大きな脅威なんじゃないの? 

なにかを規制するということは、当然弊害も伴う。だがそれも、野放しにしておいたときに、どういう事態が起こるか、という判断とのバランスの問題だし、弊害をどれほど押さえ込むか、という知恵の問題だろう。

マイノリティがかわいそう、という人間的共感はそれは大事だけれど、それだけでは、多数派が迫害される可能性を増やすのなら、少数派はちょっとがまんしとけ、という「現実的な判断」には対抗できないように思う。

それと、前科の話が本当かどうかわからないが、それをどうこう言うのは、別の種類の偏見を垂れ流しているだけでしょう。下品だという以前に、人権を守るという意味で問題だ。そんなことを持ち出さなくても、「いたたたたたー」という、うれしそうな声を聞いただけで、十分この男の内実なんて知れるというものだ。

2008年12月21日
から greenfish
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50年前の少女

アニメ『アルプスの少女 ハイジ』に、フランクフルトに連れて行かれたハイジが、山恋しさのあまり、夢遊病になってしまい、幽霊と間違えられて大騒ぎになる、というくだりがある。


こどもの頃、祖母といっしょにテレビを見ていて、その話で祖母が大泣きに泣いているのを見て、そりゃあかわいそうではあるけど、そこまでか? と不思議に思ったことがある。


わたしの祖母は、10代のはじめに日本にやってきた。幼いころに母親を亡くし、父親は仕事で留守がちだったので、祖父や叔父夫婦に面倒を見てもらっていたのだが、その叔父が日本に来ることになり、連れられて来たのだ。貧しい暮らしの中で、日本語を覚えるとまもなく、子守奉公に出されたという。12,3歳の少女が慣れない異国の地で、肉親からも離れて知らない人の中で暮らしたのである。どれほどホームシックにさいなまれたことだろう。

こどもの頃は、祖母の少女時代の境遇を知らなかったけれど、いまなら、ハイジに感情移入して泣けてしかたがなかったというのも、よくわかる。


高校生のころ。ボーイフレンドと映画に出かけるというとき、大騒ぎして洋服を選び、髪をブローして出かけようとしていると、祖母がしみじみと「おまえはいいねぇ。男友達と遊びに行けて」と言った。


祖母の子守奉公の次の仕事は、紡績工場の女工だった。そこも住み込みの仕事で、父親は給料が出るときだけ会いに来るという調子だったらしい。


あるとき、同僚の女の子が機械に長いお下げ髪を巻き込まれてケガをするという事故があり、また事故が起こるのを恐れた工場主が、働いていた女の子たち全員の髪を切ってしまうということがあった。その数日後に父親が会いに来て、言った言葉が、「おまえ、その髪の毛はどうしたらいいんだ。あした嫁に行くというのに」。本人の知らぬ間に縁談をまとめて来ていたのである。祖母はまだ15歳だった。


父親のいうことは絶対で、逆らうことなど思いもよらない。一晩泣き明かして、翌日嫁ぎ先の海辺の町にむけて、初めて乗る自動車ではるばると旅した。車酔いでひどいめにあったそうだ。そして、結婚式のときに、初めて夫となる人の顔を見たのである。ぜんぜん好みじゃなくてがっかりした、と言っていた。でも、当然ながら、祖母の気持ちや、男性の好みなどだれも気にしてくれなかった。その夫、つまり、わたしの祖父とは、今年の3月に祖父が亡くなるまで、70年にわたって添い遂げることになるんだけど。


4人の子供を産み、孫が高校生になってもまだ、祖母の胸には、好きな男の子と遊びに行く、ということへのあこがれがあったのだろう。言われたそのときは、あまりぴんと来なかったのだが、いまだに覚えているところを見ると、苦労なんてかけらもなく、わがままいっぱいに育った高校生にも、50年前の少女の気持ちが、少しは伝わっていたのかも知れない。

2008年11月7日
から greenfish
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外国人登録証の国籍欄はすべて記号である

国籍とは、国が国籍法などで「こういう人がうちの国民!」と定義することで決められる。

これをもう少し敷衍すると、国籍を決めるのはその人の属する国家だけであって、それ以外の国は、ある人の国籍についてどうこう言うことはできない。

外国人登録証の国籍欄は、日本政府が外国人の国籍について分類する際の記号である。そこになんと書いてあろうと、外国人の国籍について日本国が決められない以上、その人の国籍に影響するわけがない。

そんなわけない、国籍欄に「アメリカ」と書いてあれば、その人はアメリカ合衆国の国民だし、「フランス」と書いてあれば、フランス共和国の国民でしょう、そうじゃなきゃ「国籍」なんて意味ないじゃん、というのが常識だろう。だが、「朝鮮」という記載はその埒外にある。

外国人登録令が施行された1947年、日本国内にいた朝鮮出身者は、まだ日本国籍を保持していたにもかかわらず、この勅令(これが最後の勅令なんだよね、余談だが)の対象とされ、外国人として管理されることになった。そのとき、国籍欄に書かれたのが「朝鮮」という文字である。

当時はまだ、大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国も成立していなかった。朝鮮と呼ばれる土地、自分が朝鮮人だと思っている何千万の人々は存在したが「朝鮮」という国家は、どこにも存在していなかったのである。つまり「朝鮮籍」というのは、日本の植民地であった朝鮮の出身、もっと具体的に言えば、朝鮮戸籍登載者という意味しかなかった。

これが、「朝鮮籍」というものの正体である。「北朝鮮籍」などと勘違いしている人もよくみかけるが、朝鮮民主主義人民共和国とは、ぜんぜん関係ない。

まあしかし、勘違いをもたらす事情というのもやはりあるわけで、在日が韓国領事館に行って韓国のパスポートを発給してもらおうとすると、日本の外国人登録の国籍欄を「韓国」と書き換えなければ、正式なパスポートを発給してもらえない。

「朝鮮籍」と外登証に書いてあろうと、韓国の国籍法から見れば大韓民国の国民の要件を満たしているわけで、これは明らかに差別である。自分の国の国民かどうかを見るのに、日本政府のお墨付きをもらわなきゃいけないなんて、植民地根性もいいかげんにしてほしいものだ。

2008年9月22日
から greenfish
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危険なポジティブ・シンキング


宋文洲のメルマガの読者広場: 差別が全部悪いとは限らない

んー、なんなんだろう、これは。ひょっとしてエセ同和団体とトラブルでもあったんだろうか。そうじゃなくて、外国出身ながら日本の経済界で成功した人が見せる過適応の結果だとしたら、それはそれで悲しいお話だと思うが。

自分の身にふりかかった不幸について、「悪いことばかりではない」というとらえ方は、よく見られることだし、個人的なことに限って言えば、なかなか有用な考え方だとも思う。たとえば、大病や大ケガをして長期入院したが、死を身近にとらえることによって、より生の大切さを感じた、とか、まわりの人の温かい気持ちに触れることができた、とかね。でも、だからといって病気をしたい人などいない。

差別は病気とは違って、差別をする主体というものがある。艱難汝を玉にす、じゃないけど、差別をされて強くなり、かえって成功しました、とか、心の豊かな人間になりました、なんてうるわしい話は、個人的な体験という文脈を離れると、えてして差別をする側を免罪することにつながる。

この世から病気というものがなくなる日は来ないにしても、病気の治療法の研究は営々として続けられているわけだし、病気は人間にとって宿命的なものだから、そんなことしてもムダだとか、病気になってしまっても明るく受け入れるしかない、なんて言う人もいないだろう。

しかし、こと差別についての話になると「差別は人間の本性だからなくならない」ということを、「だから差別をする/される」ことも当たり前、とめちゃくちゃなつなげ方をしてなにか言ったような気になっているのは、どういうことだろうか。

差別する側が、その理由として持ち出した被差別者の欠点が実際に克服されなければならないものだとして、それが差別を正当化する理由にはならない。玄関があけっぱなしで泥棒に入られたとしても、被害者がこれから戸締まりをきちんとしよう、と決意し、鍵をふたつもみっつもつけて自衛するのと、盗人を罰する必要があるのは、まったく別の話である。

確かに、差別される痛みを知ることによって、自分もまた差別をする主体であることを自覚し、自らを戒める、というのはよくある話だし、わたし自身にもそういう部分はあると思う。でも、被害者にならなければ、自分の中の悪や不正義には気づかないものだろうか。

自分の子供たちには、差別を憎む心を持ってほしいと思っているが、そのためには差別される体験も悪いばかりではない、なんてわたしにはまったく思えない。人を傷つけるような人間になるより、傷つけられるほうがましなのかもしれないし、自らを傷つけた人間をも赦す心を持つことはすばらしいことなのかもしれないが、だからといって、差別も悪いことばかりではない、といって、差別された痛みを見過ごすことはできない。

「それぞれの行いとその結果に応じて人々を区別することは当然」だとしても、それと「全員が合意できる「区別」と「差別」の線引きは存在しません」ということは、まったく論理的につながらない。わざわざ個人的な行動を「区別されるべき」例として出しているのは、ミスリーディングもいいところだ。
わたしが賃貸住宅を借りるのに「外国人お断り」と言われて苦労するのは、わたしという個人が迷惑行為をした結果ではない。

偉い人や成功者、つまり、権力のあるものは、どんなに悪いことをしても批判されることはあっても、それを理由に差別されるわけではない。意識的に差別と批判を混同し、差別というものにまつわる権力性を覆い隠そうとしている。これも、まったく現実性を伴わない、ためにする議論である。

一読するとすごくもっともらしいのだが、よく読むと、論理的にも粗雑きわまりない文章である。「差別される体験が」悪いことばかりではない、という話を「差別が」悪いことばかりではない、という話にすりかえている。賢い人がこういう穴だらけの議論をするのを見ると、最初の話ではないが、いったいどういう意図があるのかと勘ぐりたくもなるものである。