Green Fish

個人的なあれこれ。

2012年11月29日
から greenfish
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プロフィール写真撮影

友人たちと語らって 大橋 健志 カメラマンにプロフィール写真を撮影してもらいました。
スタジオの中は薄暗くなっていて、白い布の向こう側から照明を当て、ストロボをたくとあら不思議。
明るくて自然な顔色に写っているのでした。
撮影している間、カメラの後ろに友人たちがいて、笑わせてくれたので自然な笑顔が撮れていたと思います。
できあがりが楽しみ!
これで商売益々繁盛かな(笑)

2012年8月23日
から greenfish
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社会の「遊び」


年金機構の「お知らせ」(リンク切れ)の中には、「今般、偽名の健康保険・厚生年金保険被保険者資格取得届による健康保険被保険者証を交付していた事案が判明しました」とある。

いったいなんのことだろうと思って、ざっと検索したところでは、今年1月に、元オウム真理教幹部といっしょに逃亡生活をしていた女性が、偽名で保険証を取得していた、という記事しか見当たらなかった。

企業などが新たに従業員を雇い、健康保険と厚生年金保険に加入させる際、企業側は『被保険者資格取得届』という文書に記入し、年金事務所に申請する。(中略)意外なことに、この際、年金事務所から本人確認の証明は求められないのである。(中略)つまり、事業主が本人確認を怠れば、偽名での申請が通ってしまうということになる。

NEWSポストセブン|元オウム斎藤容疑者 偽名で保険証取れた年金事務所のザル審査 より引用)

「ザル審査」とか、悪意たっぷりの記事であるが、書いてあることはこのとおり。

オウム真理教の元幹部逮捕という重大事案だったので、週刊誌にもこのようにとりあげられたわけであるが、実は基礎年金番号が導入されるまでは、「偽名」で保険証を取得することは、いまよりずっと簡単だった。引用した記事のように、会社の側が入社するときに住民票などの証明書を求めず、履歴書に記載したまま健康保険・厚生年金の取得届を書けば、それで通ってしまったからである。

当時でも、厚生年金の番号は、最初に出されたものを一生涯使うという建前にはなっていたが、実際は転職した際に年金手帳をなくして持っていなかったりすれば、そのまま新規取得扱いで、新しい番号がふりだされることが多かった。基礎年金番号が導入された当時は、厚生年金番号や国民年金番号を複数持っている人は統合する必要があったので、「年金手帳を全部持ってきてください」というと、5冊も6冊も出てくることも珍しくなかった。10数年前から社労士や総務をやっていた人ならだれでも知っていることである。

家出してきたり、いろいろ事情があって本名を明かさずに働きたいという場合がある。温泉旅館やパチンコ店など、むかしは住込みで保証人もとらずに雇っているところが多く、そういう「ワケアリ」の人たちの隠れ場所にもなっていて、上記のように偽名で社会保険に加入することもできた。(偽名で厚生年金に加入していると、老齢年金を受取るとき、その部分が本人であるという証明ができないので、掛けた保険料がパーになったり、年金受給資格の年数が満たせなくなることがあるので、身に覚えのある人はご注意を。)

基礎年金番号導入後は、さすがにそれほど簡単ではなくなったが、今回の事件のように住民票をとらなければ、こういうこともままあるわけである。

犯罪者の逃亡を助けたいのか、と言われそうであるが、社会には、こういう「ワケアリ」の人たちが、隠れてひっそり生きられる場所があってもいいのではないか、と個人的には思う。本名や、いままでの生きてきた場所とのつながりを断って生きることがあまりに難しいと、かえって追い詰められて、重大な犯罪や自殺につながることもあるかもしれない。

DV被害者などは公的な扶助もあるが、犯罪ではないにしろ、家出だったり、身勝手な理由で逃げている人は、そういうところにも行きにくいだろう。

今回の年金事務所の通知に問題があるということではないし、これから「本人確認」がゆるくなるということはありえないとも思うが、車のハンドルに「遊び」が必要なように、社会にそういう少しゆるい部分がどんどん失われていくというのも、生きづらくなるひとつの理由かもなぁ、と思う。

2011年12月1日
から greenfish
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ボタン

毎晩のように中学生に「早くお風呂はいんなよ~」「お母さんが先に入ればいいじゃん」「お母さん長いから遅くなるよ」という問答をかわしてるんだけど、テキはなかなか動かない。

きょうはなにげなく「君があとにつかえてると思うと、思いっきりゆっくり入れないんだよ」というと、「そうか」とすんなり立ってお風呂はいいりに行った。

あれれ。「気持ちを言葉にする」とか、人様にえらそうに言ってる場合じゃないねw

たまたま今回はそう言ったら動いたわけだが、このボタンを押したら動いた、みたいな話ではない。彼にも彼の、お風呂にすぐ入りたくない理由があって、そこで反論してくるかもしれないけど、「先に入れ」といいあってるよりは、かなり建設的でしょう。

2011年9月25日
から greenfish
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放り出されたもの

 荒野の端のキャッチャー – 傘をひらいて、空を

これこそ、傾聴だ。一読して、そう思った。

傾聴の技術は、ちゃんと習うとたいていの人は身につけることができる。だが、なにも習わなくても、自然に傾聴ができる人が一部にいて、これはそういう人のことを描いた掌編だ。

このお話に出てくる「ささやかな才能」の持ち主は、こう言う。

苦痛を感じているのは彼らです。荒野に置き去りにされてなにかを訴えている。たとえその対象が見当違いであったとしても、彼らが感じているのは痛みです。痛いと人が言ったとき、おお痛いのですかと私たちは思う。どこが痛いですか、どう痛いですか、痛いのいやですねえ。こうならなければおかしい。それをことさらに言われたい人には言う。でなければ黙っている。それだけです。勉強会で話したテクニックみたいなものはほんとはたいした問題じゃないんです。

テクニックがたいした問題じゃない、というのは、もともと本質をつかんでいる人だから出る言葉で、そういう「才能」に恵まれていないものにとっては、テクニックは重要なものだと思う。きちんと練習すれば、ある一定の線まで到達する、そういう効率的な方法なのだから。

視線も体の向きも、きちんと話し手に向ける。適切なうなづきとあいづち。ポイントとなる言葉を繰り返す。感情があらわれた言葉が出てきたら、忘れず受け止める。

教科書的にはほかにもいろいろあるのだが、つまるところ、「あなたの話をよく聞いていますよ」「あなたの語る話を、あなたの感情を、大切に扱っていますよ」というサインを話し手に送り続けること。それが傾聴の基本だと思う。

聞き流される話は、雑に扱われ、そのへんに放り出された品物だ。それをしっかりと手に持ち、じっくり観察する。そうすると、それを放り出した元の持ち主も、その品物の重みに気づく。ゆっくりためつすがめつしてみて、中にちらちらと見えるものに目を凝らす。表面をおおっている、かさかさに乾いてひび割れたものを、慎重にとりのぞいて、中のやわらかいものをあらわにしていく。

苦情の電話で、そういうプロセスをたどることはあまりないのかもしれないが、少なくとも、どこかのだれかが、放り出したものを拾い上げて、きれいにぬぐってくれると、元の持ち主はそれだけでかなりの部分が満たされる。うっちゃっておくと、うっちゃっておくのにふさわしい価値しかなくなる。大切に扱うと、大切に扱うだけの価値があるものになる。そういう話だと感じた。

2011年9月22日
から greenfish
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バッシングの構造


 「農業やりたくない」 就職拒否のミャンマー難民夫婦が会見 – MSN産経ニュース(現在はリンク切れ)
 

「(農作業は)大変だった。農業はやりたくない」/農作業が早朝から長時間におよび、暑いビニールハウス内で作業する大変さを説明。長男(16)が通っていた夜間中学が遠く、帰りが遅くなることから通学を断念したとも明らかにした。


上にリンクしたニュースを読んで、たいていの人が感じることは「農作業なんて大変に決まってるじゃないか。日本に来ればぜいたくできると思って、甘い考えで来たんだろう。おれだって、毎日朝から遅くまで働いていて、子供も遠くの塾まで通って遅くまで勉強してるんだ。甘ったれるんじゃない」というあたりだろうか。

というか、明らかに上のような反応を狙って書いた記事だと思う。発表された内容のうち、この難民の家族に悪意を持って上手に切り取ると、上のような記事ができあがる。そういう意味ではよくできている。決してマネしたくはないが。

さて、同じ難民家族の記者会見について、もうひとつ別の記事がある。

 ミャンマー難民:「事前説明と異なる長時間労働」改善訴え – 毎日jp(毎日新聞)(現在はリンク切れ)
 

「事前説明と異なる長時間労働を強いられ、支援者との接触も制限された」/「朝早くから夜遅くまで仕事で家族との時間も取れない。子どもを病院に行かせる時間もない」「戦争がなく自由な生活ができると思って日本に来たのに、とても残念」


これは多少印象が違うのではないかと思う。長時間労働が事前の説明と違っていたこと、支援者との接触も制限されたこと、は、上の産経の記事には触れられていない点だ。

日本での難民の処遇に少しでも関心のある人なら、最初の記事を読んだ時点でも、具体的に書いてない生活の状況が、ありえないくらいひどいんじゃないか、端的に言えば奴隷といっていいような状況なのではないか、というのは、容易に想像がつく。

この家族の具体的な生活のようすを、状況を知っている人から聞く機会があったのだが、想像を裏切らないひどいものだった。まさに日本の恥。

さらにもうひとつ、これはマスコミの記事ではなく、ブログなのだが、別の視点から、どうしてこれが日本の恥なのか、きちんと論証したよい記事があった。

 ミャンマー人は何故農業をしたくないのか – mizuiro_ahiruの日記
 

この難民受け入れ事業を行っているのは、「財団法人アジア福祉教育財団・難民事業本部」というところです。外務省官僚がゾロゾロ天下りしているハズです。/総予算が年間8億3000万円で、その内大半の7億7000万円が外務省から出ています。/合計8億3000万円の予算、4億1000万円もの経費を使って、実績はと言えば、5年でたった159人。年平均30人程度受け入れているだけです。難民一人に予算2700万円かかってます。医者でも養成してるのか?。


開いた口がふさがらない。

しかし、ここまで読んでも、おそらくわたしが最初に想像で作った「感想」はとくにかわらない、という人もいるのではないかと思う。

たとえ奴隷のような状態だって、祖国にいるよりましなんだから、我慢すべきだ。言葉もわからない外国で、まともな仕事があるわけないだろう。日本人だって就職に苦労してるのに。受け入れ団体がどれだけひどくても、それは難民が甘ったれていることとは別の話だ。

と、また想像で書き連ねているが、いくらでも出てきそうだ。少し前の話だが、派遣村に集まった非正規労働者にどんな言葉が投げつけられたか思い出せば、想像するのは簡単だ。

理不尽な状況にいる人たちが、その理不尽さを訴えると、「努力が足りない」「自己責任」「甘ったれるな」というバッシングが待っている。バッシングしている人たちは、自分たちのつらい状況への怒りを、自分たちができないことをしているように見える人たちにぶつけているのである。

長時間労働でへとへとになって、それでも食べるだけで精一杯。そんな生活はだれだっていやなはずだ。異議申し立てをする人たちを叩けば、とりあえず、多少の鬱憤ははれるのかもしれない。だが、そんなバッシングがいつものことになれば、だれも文句を言えなくなり、改善への望みは絶たれてしまう。

理屈で考えてそれがわからないわけもないと思うのだが、こういうニュースを見た途端に噴出する感情に圧倒されているんだろうなぁ。

虐げられた者どうしが足を引っ張り合っていて、喜ぶのは誰なのか。難民の甘えに対して使われる想像力を、なんとかそちらの方向に向けてもらえないだろうか。