Green Fish

個人的なあれこれ。

放り出されたもの

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 荒野の端のキャッチャー – 傘をひらいて、空を

これこそ、傾聴だ。一読して、そう思った。

傾聴の技術は、ちゃんと習うとたいていの人は身につけることができる。だが、なにも習わなくても、自然に傾聴ができる人が一部にいて、これはそういう人のことを描いた掌編だ。

このお話に出てくる「ささやかな才能」の持ち主は、こう言う。

苦痛を感じているのは彼らです。荒野に置き去りにされてなにかを訴えている。たとえその対象が見当違いであったとしても、彼らが感じているのは痛みです。痛いと人が言ったとき、おお痛いのですかと私たちは思う。どこが痛いですか、どう痛いですか、痛いのいやですねえ。こうならなければおかしい。それをことさらに言われたい人には言う。でなければ黙っている。それだけです。勉強会で話したテクニックみたいなものはほんとはたいした問題じゃないんです。

テクニックがたいした問題じゃない、というのは、もともと本質をつかんでいる人だから出る言葉で、そういう「才能」に恵まれていないものにとっては、テクニックは重要なものだと思う。きちんと練習すれば、ある一定の線まで到達する、そういう効率的な方法なのだから。

視線も体の向きも、きちんと話し手に向ける。適切なうなづきとあいづち。ポイントとなる言葉を繰り返す。感情があらわれた言葉が出てきたら、忘れず受け止める。

教科書的にはほかにもいろいろあるのだが、つまるところ、「あなたの話をよく聞いていますよ」「あなたの語る話を、あなたの感情を、大切に扱っていますよ」というサインを話し手に送り続けること。それが傾聴の基本だと思う。

聞き流される話は、雑に扱われ、そのへんに放り出された品物だ。それをしっかりと手に持ち、じっくり観察する。そうすると、それを放り出した元の持ち主も、その品物の重みに気づく。ゆっくりためつすがめつしてみて、中にちらちらと見えるものに目を凝らす。表面をおおっている、かさかさに乾いてひび割れたものを、慎重にとりのぞいて、中のやわらかいものをあらわにしていく。

苦情の電話で、そういうプロセスをたどることはあまりないのかもしれないが、少なくとも、どこかのだれかが、放り出したものを拾い上げて、きれいにぬぐってくれると、元の持ち主はそれだけでかなりの部分が満たされる。うっちゃっておくと、うっちゃっておくのにふさわしい価値しかなくなる。大切に扱うと、大切に扱うだけの価値があるものになる。そういう話だと感じた。

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