Green Fish

個人的なあれこれ。

2015年1月3日
から greenfish
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ネットにかかるお金と時間

1990年台のネット事情と、現在の最大の違いは、参入するコストだろう。

わたしがパソコン通信をはじめたのは、たぶん1994、5年ごろだと思うが、当時は、パソコン自体が30万円以上したし、そこにモデムをつないで、Nifty Serve なり、PC-VAN なりのサーバーにつなぐのも、いろいろ設定が必要だった。

当時のわたしに特別な知識があったわけではなく、説明書を見ながらその通りにしたら、ふつうにできたのだが、「説明書を見ながら、何段階かにわたる設定をする」ということ自体、できない、もしくはやりたくない人というのは、いまも昔も変わらずいるだろう。やってみもしないで「自分にはムリ」と考える人たち。そういう人は、参入してこなかった。まあ、ときどき「夫(彼氏)が全部やってくれて、わたしはぜんぜんわからないわ」って女性もいたが。

通信料自体も、定額サービスは、夜中の「テレホーダイ」だけで、あとは従量課金だったから、通信費として、電話代を毎月数万円使う人も珍しくなかった。ちなみに、当時は通話するための電話回線と通信するための回線は共用なのがふつうで、パソコン通信につないでる間は、電話は話し中になってしまった。

というわけで、当時多かったのは、IT関連の仕事をしてる人、あとは大学の先生とか。どちらも、ふつうだったらわたしとは接点のない人たちだが、いまでもわたしの交友関係にこういう仕事の人が多いのは、このころのなごりである。

基本的に、新しいことが好きで、自分が好きな人が多かったように思う。もちろん、わたしもそのひとり。

97年か8年ごろから、「ホームページ」を自分で開設する人が増え始め、わたしが自分のサイトを持ったのが99年。そして「日記猿人」や「Read Me!」に登録して、せっせと「ウェブ日記」を書き綴っていた。

最初は html の知識など皆無で、MSの FrontPage というソフトを使っていたが、ゴミだらけのとんでもなく重いページを作ってしまい、「重くて読めない」と言われて少しずつ直すために覚えていった感じだ。

どっちにしても、「ホームページ」を作って公開するというのは、いま考えると笑っちゃうくらいめんどくさいものだった。

バトルもあったし、2ちゃんねるに書き立てられたのも一度や二度ではないが、「自分の好きなことを書く」というほど自由だったことって、あったっけ?

これは、いろいろな行きがかりから、パソコン通信のころから、わたしが本名で素性を明かしてネットにものを書いていたことが、大きく関わっているだろうけど。家族や友人知人が読む可能性がある、ということは、常に頭にあった。

そして、素性を明かす、ということは、在日朝鮮人だということも明らかにしていたわけで、当時はそういう人はごく一部だったから、「在日代表」のように見られることも多かった。当然、言動にはある程度慎重になるというものである。

「ヘイトスピーチ」という言葉はなかったが、マイノリティに対する誹謗中傷は99年ごろからかなりえげつないものだったから、たびたびその標的にもなっている。

わたしの存在自体が「一般論」に回収できないものだったから、先日リンクした最近、ブログが不自由になってきたと思いませんか? – orangestarの雑記 の人とは意見が違うのかなぁとも思う。

パソコン通信のころから、穏当でないことを書くと、注意してくれたり批判されたりというのはふつうにあって、炎上のような状態というのも珍しくなかった。それでへこんでやめてしまう人もいたけど、そのようすがいまとそんなに違うとは思わない。

当時の書き手は、新しいものに対する好奇心や実行力がある人たちが多かったことと、それだけのコストを払ってやっていたわけだから、それなりの覚悟もあったのかもしれない。

ちょっと批判されるとすぐにやめちゃう人が多い(わたしの観測範囲ではあまり見たことないので、多いかどうか自体よくわからないが)、参入があまりに簡単なのでやめるのも簡単、というそれだけのことかもしれないし、それは先ほどリンクした人に対して、異論があるわけでもない。

なんでこんなことをだらだら書いているかというと、ネット関連のことに、いままでずいぶんお金と時間を使ってきたなぁという感慨があるからだ。

別に後悔してないけどね。

2014年12月20日
から greenfish
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つまらない世代論

あちこちで管理職を相手にメンタルヘルスやハラスメントの話をしてるわけだが、いまの20代とわれわれ(50でこぼこ)はいったいどう違うんだ? という話になることがある。

われわれの若いころは、セクハラという言葉もパワハラという言葉もなかった。職場のストレスで心を病むなんて、あまり聞いたこともなかった。

でも、いまの若いものは、すべてにおいて甘やかされている。打たれ弱くなっている。れわれはどこまで我慢すればいいんだ、どこまで若い人に配慮すればいいんだ?という質問がでたりする。

どこまで、って、じゃあ、この線を超えたら、切れて暴言を吐いてもいい線なんてあると思います? と聞きたいが、まあ、そんなことは言わずに、自分たちの若いころのことをちょっと思い出してください、という話をしている。

大学はレジャーランドなんて言われていたし、適当に授業に出て、適当にサークル活動をして、適当にバイトして、それでも卒業できたし、そこそこ就職もできた。年を取ればだんだん収入も増えていくものだと、なんの根拠もなく思っていた。

でも、いまの20代は、物心ついたときから日本はずーっと不況で、終わりのない後退戦の中にある。お気楽だったわれわれと違って、すべてにおいて余裕がない。必死でしがみついてないと、振り落とされたら後がない。

仕事自体も、長時間になり密度もあがり、ずっと過酷になっている。

人は先行きに希望があれば、上司がうざくても、仕事がつまらなくても、肉体的にきつくても、なんとか耐えていけるものですよ。だからわれわれのいまがあるんじゃないですか? こんな社会を作ってしまったわれわれが、彼らになにを言えるんですか?

って、最後の一文は言わないけど。

つまんない世代論で、管理職のストレスをなだめられるとは思わないけど。

2014年11月7日
から greenfish
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友情的ななにか

友だちといっしょに急いで歩いていたら、その友だちが誤ってほかの人につきあたり、転ばせてしまった。

ふつうは、急いで、転んだ相手にかけよって助け起こし、「だいじょうぶですか? お怪我はないですか?」とたずねるだろう。

友だちが自分のしでかしたことに驚いて、ぼーっと立っていたら(まあ、当事者はそういうことってありがち)、「なにしてるの、早くあやまりなよ」と言うかもしれない。

「ごめんなさい、悪気じゃないんです」とかわりにあやまったり弁解したりするかもしれない。

と、現実によくある、ちょっとした過失からの事故であれば、話はけっこう簡単なのである。

レインボー旭日旗については、ご本人は謝罪しているし、別に大きな被害を受けたわけではないし、えらそうな言い方だが、もちろん、許します。

でも、こういうとき、まわりの人たちの振る舞いは、難しいね。

「あの表現にいかに正当性があったか」をかわりに述べるのは、転んだ人を助け起こしもせず、つったったまま、「これこれこういう正当な目的があって、急いでいたんです! しかたないんです! だいじな目的が理解できれば、痛みなんて感じませんよ!」と演説はじめちゃってる感じ。

知らんがな。

「友だち守るぞ!」と公開の場で力まなくても、本人にはこっそりDMでもなんでもしてなぐさめておけばいいものを。

もっとも、レインボー旭日旗には正しい意味があるんだから、ごちゃごちゃえらそうに文句たれてうるさいんじゃい! というのが本音であれば、関係のない話だが。

2014年11月6日
から greenfish
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言葉の通じない家族

わたしは1963年生まれで在日三世、ということは、祖父母が当時植民地だった朝鮮から日本(内地)にわたってきて、一世になったわけだが、ふたりとも日本に来た時は、まだ十代だった。その親の世代がいたわけだ。

祖母の母は早くに亡くなっていて、父親もわたしが生まれる前に亡くなったのだろう。会ったことはない。

祖父の両親は、わたしがかなり大きくなるまで健在だった。曽祖父が亡くなったのは、わたしが中学3年のとき、曾祖母は大学に入ってからだ。

祖父の一家が日本に来て長く住んでいたのが、近畿地方の海辺の小さな町(以下A町という)である。そこでパチンコ店を営んでいたが、長男である父が中部地方のとある町に住んでいたので、わたしが生まれてまもなく、その近郊(以下B市という)にもう一軒店を出し、祖父母が移り住んできたのである。

祖母は、祖父のその決断について、「孫可愛さのあまり」と言っていたが、県庁所在地の隣にあるB市は、人口が急増している地域で、もちろん経営的な判断もあったのだろう。店はすぐに軌道に乗り、ずいぶん景気がよかったそうだ。

A町には、以前からやっている店がそのままあり、もともと住んでいた家には、曾祖父母がいた。祖父の妹が、近居していて、店の責任者をしていた。

B市からA町までは、まだ新幹線のない当時、特急列車に乗っても半日がかりの旅程だった。祖父母も父も、たびたび往復して、曾祖父母やA町の店を見ていたのである。わたしの家族は、長らくA町に行くことを「Aに帰る」と言い習わしていた。

A町は美しい砂浜があるので有名な町だった。夏休みには、子どもたち、わたしの兄弟だけなく従姉妹たちも含めて、海水浴がてら、A町で1週間以上をすごす習慣だった。父とその兄弟が生まれ育ち、当時は曾祖父母だけが住んでいたその家はかなり広く、子供だったわたしには、楽しい思い出が詰まった夏の別荘のような場所だった。

A町は冬は屋根が軒にまで達する地域で、正月前後の数ヶ月は、祖父母はB市に来て過ごしていた。

というわけで、曾祖父母とは、遠く離れたところに住んでいたにも関わらず、小さい時からかなりの時間を一緒に過ごし、家族という意識もあった。また、晩年は介護の必要もあり、曾祖父母もA町をひきはらって、B市で同居していた。

その曾祖父母は、ふたりとも中年になって日本に来た人たちで、日本語はほんとうに片言程度だった。曾祖父母の話すのは、主に朝鮮語。当然、わたしたち子供は理解できない。

わたしの母は二世であるが民族教育を受けた人で、朝鮮語の会話はふつうにできたので、曾祖父母と話をする必要がある時は、祖母か母に通訳をしてもらうという調子だった。

家の中に言葉の通じない家族がいる、というのは、いまとなってはかなり特殊な環境だとわかるが、子供の頃は自分の境遇を周りと比べるなんてことはしないので、それがあたりまえだと思っていた。

ふつうに言葉が通じても、曾祖父母と曽孫、という関係で、会話がどれほどなりたったかはよくわからないが、祖母にたくさんむかしの話を聞いたように、曾祖母からも朝鮮に住んでいたころの話、日本に来た頃の話を聞いてみたかったと思う。

幼稚園からずっと日本の学校だったわたしが、朝鮮語を勉強するのは、大学に入ってからのことである。残念ながら、間に合わなかった。

2014年11月5日
から greenfish
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チョゴリと旭日旗

11月2日の 東京大行進に参加した。

わたしは、この運動にはいままでまったく関わっておらず、当日の朝、急に思いついての行動だった。

友人が多く関わっているし、関西から来る人、しばらく会っていない人、ネットでのやりとりはあるが、まだ直接顔を合わせたことのない人に会いたい、というのが主な理由である。

もちろん、反差別という理念は共有しているが、わたしはわたしのやり方で行動しているし、2時間以上かかるところまでわざわざ行って、デモ行進に参加するというやり方は、わたしの中で優先順位が低かった。

とはいうものの、せっかく参加するのであるから、韓国で買った改良韓服(韓国で現代風にアレンジされた韓国朝鮮の民族衣装。生活韓服ともいう)を、家から着ていった。

チョゴリを着るときの緊張感、注目されるから、ということではなく、ありていにいって、絡まれるのではないかという緊張も多少感じたが、韓服について知識のない日本人が見た場合「なにか変わった服」としか見えないであろうデザインだったので、あまり注目をあびることはなかった。

電車の中や駅などでこちらを注視しているのは、たいてい女性で、「なにか変わった服」への注目にすぎないと思えた。そりゃそうだろう。わたしだって、公共の場で民族衣装らしき見慣れない服装の人を見たら、なるべく失礼にならない範囲で、観察すると思う。

会いたい人にもたくさん会えたし、デモ行進自体もなかなか楽しかったが、やはりどうしてもひとつ気になることがあり、繰り返しそのときの状況を考えている。

デモが終わりに近づいたあたりで、沿道に大きな旗を持って立っている人が目に入ってきた。

旭日旗である。しかも、ごていねいに、持っている人は軍服コスプレをして、ヘルメットをかぶり、サングラスとマスクで顔を隠している。

ぎょっとして、よく見ると、旭日旗はレインボーカラーで、おそらく、本来の意図を読み替える、というつもりだと思えた。

しかも、ヘルメットには「男組」の文字。ここまで見て、はじめて、レイシストがカウンターをかけてきたのではなく、この行進の参加者のひとりであることがわかった。

それがわかるまで、せいぜい2,3秒のことだったと思うが、体ががちがちに緊張し、息が苦しくなったのはよく覚えている。

なんらかの理由づけはあるんだろうけど、よりによって、在日がたくさん来ているのがわかっているこの場に、たとえレインボーカラーだろうが旭日旗を持ち込むなんて、無神経というか、悪趣味というか、かんべんしてほしい、と思った。

一瞬のことだったので、そのあとは忘れていたのだが、翌日ツイッターを見たら、主催者や賛同者として名を連ねている人たちが、このレインボー旭日旗とその持ち主とともに写真におさまっているということで、批判されていた。

議論についてはちゃんと追ってないので、どういう話になっているのかは、よくわからない。

一夜たって、写真を見た段階では、それほどの衝撃はない。たんに実物とディスプレイ越しの画像という違いなのかもしれないが、どうも、それを見たときに自分がチョゴリを着ていたかどうかの違いが大きいのではないかという気がしてならない。

ふつうの服装でいきなりレインボー旭日旗を見る、という体験はいままでないので、比較することはできないし「気がする」という以上のものはないだが。

チョゴリという「民族の表象」。

自分が朝鮮人であることを強く意識し、しかも、周りはすべて反差別という目的を同じくする仲間であるという安心感を感じているときに見た旭日旗。強い恐怖と不快感の源泉がそこであるように感じられる。

あの旗ひとつをもって、東京大行進自体を否定するつもりはないが、あの旗をまた実際に見ることはいやだなぁという強い気持ちはある。

たくさんの人が、多大な労力をかけて作った運動であることはよくわかるし、当日ほいっと参加した者が、次に行く気になるかどうかがそれほどたいした問題であるとも思わないが、あのときの感覚を言語化しておく必要を感じた。自分の側の問題なので、組織批判とかとられるのは本意ではない。もちろん、この文章に対して批判が出ること自体は、すべてのネットに発表された文章と同じく、ありうることだとは思っている。