Green Fish

個人的なあれこれ。

2016年1月28日
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LGBTあるある動画

マサキチトセの Queer 英会話 on Twitter

Twitter での話なんだけど、ここのところ考えていたことと重なるので、ちょっとシェア。

この動画のすばらしさは、ちょっと笑っちゃうような「あるあるネタ」を入り口に、人と人とのコミュニケーションのしかたにきちんと言及し、LGBTという枠を超えた話になっているところだと思う。

マサキくんも動画の中で言っているように、これはマサキくんの感じ方であって、同じこと言われても気にならない人もいれば、別の言葉にうんざりということも当然ある。

たとえば、在日外国人の立場からしても、こういうあるあるネタはやっぱりあって、げんなりすることもあるんだけど、それだけ興味をもってくれているということだから、と、前向きにとって一生懸命答えたり、ということもある。

料理が好きな人からすると、自分と同じ地域に住んでいる在日外国人がふだん何食べてるかとか、けっこう興味があることらしく、よく尋ねられるし、わたしもその気持はわかる。 あと、女性だとチョゴリがステキ、という話もよく出てくる。 それなら、そのことをテーマに集まろうか、と始めたのが、チャリティ Korean Cafeでもあるわけで。

まあ、一般的にここに出てくるようなこと言われたら、うんざりする人は多いと思うので、そういう知識を持っておくことも悪くはない。 ていうか、少しの一般常識とデリカシーがあれば、ふつうはこんなこと言わないでしょ、というのも多い。

とはいっても、前もって、相手がいやがることすべてを知っておくなんてことは不可能なので、当然間違ってしまうこともある。

反論されるだけではなくて、ふっと相手の表情が曇ったり、黙ってしまったりしたら、状況と相手との関係性によっては「あ、なにか悪いこと言った?」「よかったら理由を聞いていい?」「気づかなくてごめんね」という方向に行けば、失敗もリカバーできるし、かえってお互いの信頼が深まる、という結果になることも十分ありえる。

そのときはなにげなく流してしまっても、「あのとき、なにか言いたそうだったな」ということを覚えておくだけでも、違うと思う。

あと、「好意で言ったことなのに、否定的な反応がかえってきてがっかり」とか、「やっぱりLGBT(外国人)は」みたいなのが怖いので、黙って流してしまうか、適当に調子を合わせているマイノリティも多いと思う。ていうか、人のことではなく、わたしがそうだ。

適当に調子を合わせていると言っても、「それはないでしょ?」という相手の言葉に、やんわり注意したり抗議したりしてみたものの、とても嫌な思いをしたということが何度もあって、そうなっちゃっているわけで。あと、単純にめんどくさい、この人との関係性にそれだけのリスクをとったりコストをかける価値はない、という判断とか。

だから、この動画のように反応されたら、たとえ剣突くらわされたと感じたとしても、上に書いたような怖れを飲み込んだ上で、適当に流さずにきちんと向きあおうとしているっていうことはわかってほしいと思う。

2016年1月4日
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感音性難聴その後

先日読んだ本が、有川浩の『レインツリーの国』で、読み始めるまで知らなかったのだが、これは感音性難聴のヒロインが出てくる話である。

この女性は補聴器をつけていて、障害といっていいレベルなので、ふつうに日常生活を送れているわたしとは、同じ病気といっても困難さがぜんぜん違うが、耳の病気の影響がわからない人への説明の仕方とか、対応の仕方がいろいろ出てきて興味深かった。

もう何年前か忘れてしまったが、わたしの場合は低音障害型感音性難聴という病気で、かなり耳鼻科に通っていったんは完治したのだが、その後何度か再発し、現在も体調によっては聞こえづらいときがある。

とはいっても、「聞こえづらい」という言葉を使ってしまうと、この病気の影響とはかなりずれてしまうような気がする。

もっと具体的に言うと、まず、聞こえづらいというよりも、言葉が聞き取れない。音としては十分聞こえているのだが、なにを言っているのか判別できない。

なので、小さい声よりも、もごもごした話し方のほうが問題である。「低音障害型」という言葉でわかるように、女性や子供の声はそんなに問題を感じないのだが、男性の低い声は苦手だ。それと、これはたいへん申し訳ない話なのだが、聞き慣れない方言で話されると、何度も聞き返すはめになる。

家の中や、仕事中に、そこそこ静かな場所で、1対1、または数名の方と話しているときには、とくに問題はない。

問題がある場面は、宴会やパーティー、あと、研修でグループワークをやっているときである。背景のざわざわがやがやをうまくオミットできず、目の前の人の言葉がとても聞き取りづらい。多人数の飲み会などは、ほんとに苦手になってしまった。研修でも、グループワークがあると、ぐったり疲れてしまう。

難聴もいろいろなタイプがあるので、だれにでも通じるわけではないが、わたしの場合は、配慮してもらえるとしたら、次のようにしてもらえるとありがたい。

まず、口の中でもごもごではなく、はっきり発音してほしい。そして、顔を見て話してほしい。表情や口の動きで、わかりづらい部分を補っているからである。

そして、もし聞き返されたら、大きい声をだすのではなく、同じ声量でいいので、ゆっくりはっきり発音してほしい。

わたしのように難聴が軽いレベルの場合は、これでだいたい解決できる。

また、対人関係には影響ないが、もうひとつ困ったことがある。それは、スピーカーを通した大きな音が苦手になってしまったことである。

これは聞き取りづらいのではなく、ふつうの人がとくに苦痛を感じない音量でも、音が大きすぎると感じて苦痛になる。

映画が好きなのだが、劇場で見るときは耳栓は必須だ。耳栓といっても、完全に聞こえなくなるわけではなく、音の大きさをやわらげるタイプのものである。これはいつも持ち歩いていて、BGMの音量が大きすぎるお店や、駅などで案内のアナウンスの音が大きすぎると感じるときに活躍している。

前回のソン・シギョンのライブで、ずいぶん後ろのほうでスピーカーから遠い席だったにも関わらず、耳栓がないとつらいことに気づき、ほんとに悲しかった。自分の大好きなアーティストのライブで耳栓! がっかりである。3月の日本公演も行きたいのはやまやまだが、こういう事情なので、ちょっと迷っている。いや、行くけどね、たぶん。

2016年1月2日
から greenfish
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何もしないでいい正月

昨年12月に舅の弟(養子に出ていた)が亡くなり、舅姑は喪中ということで、「今年はお正月しないから」と言われていた。

例年、実家に帰省して韓国式の正月を過ごすことが多いのだが、自宅にいるときは、簡単ではあるがおせちの用意をしていた。

今年は下の息子が受験生ということで、帰省はせずに家で過ごす正月だ。義父母は泊まりがけでどこかに出かけて年越しするということで、夫、息子の3人である。

さて、そうなると、なにを作ろうか。

予定では、ナムル3種、トゥブブチム(豆腐の焼いたの)、丸鶏の蒸したの、肉のスープのつもりだった。

しかし、年末風邪をひいてしまい、大掃除もしないでほとんど寝て過ごす有様。31日はだいぶ回復したので、夕食後に、正月用の料理をつくるつもりだったが、力尽きて寝てしまった。

というわけで、元旦の朝7時に起き(別に用事はないので、夫と息子は寝ている)、できた料理がこれである。たったこれだけなのだが、病み上がりとしてはまあまあがんばった結果。

でも、正月だからといって、伝統的な料理を作らなければいけないなんて、だれかに言われたわけでもなく、「9時に正月のあいさつするから起きるように」と言い渡された夫と息子は迷惑げだった。

わたしの実家では、正月は祭祀/チェサ(ほんとは茶礼/チャレというらしいのだが、やることはチェサといっしょなのでチェサですましていた)をするので、何種類もの韓国料理を大量に作るのが恒例だった。まあ、それがしみついているといえばそれまでなのだが、なにもしなくてもいいはずなのに、なにもしないと、自分自身が気持ち悪いのである。

実家の母も、舅姑も夫も亡くなり、いまでは家の主人なので、チェサをしようがしまいが、母の選択にまかされている。しかし、50年以上、年に10回も続けてきたチェサのしたくを急にやめるのも抵抗があるようで、規模を縮小し、回数も減らして続けているのである。

わたしに関しても、年中行事などはほとんど興味がなく、子供のためにやっていると思っていたが、長年続けていると、案外そうでもないようである。

韓国の女にとって、チェサのしたくというのは、いやでもやらざるを得ないたいへんな労働だった。夫の親と別居していても、このときは一族郎党集まって女たちは台所にこもって料理に勤しむので、姑小姑相嫁などとつきあう心理的な負担も大きかった。

でも「別にやらなくてもいい」「自分の好きにしていい」という状況になっても、すっぱりやめられないというのは、いったいなんなんだろうなぁ。少なくとも、わたしについて言えば、伝統文化を守るなんて気はさっぱりなく、儒教くそくらえと思っているくらいなのに。

もちろん、心理学的にどうだとか、あれこれ御託を並べることはできるが、正直あんまりやりたくない。

来年は体調に気をつけて、もっとたくさんの種類を作ろう、母にもやり方をよく聞いておこう、なんて思っているくらいである。

2015年7月25日
から greenfish
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わたしは行かない


元詐欺師・逮捕歴有りの新風のオヤジが在日韓国人青年に喧嘩売る→ぶっ倒され泣き言(笑) – dj19の日記

道を歩いていてヘイトスピーチを否応なく耳にすることが、これからあるかもしれない、という可能性に思い至って、かなり頭が痛い。宇都宮でも、昨年似たような団体(というか、構成員はだいぶかぶっているようだが)が、宣伝活動をしていたらしい。この動画に出てくる宇都宮地裁前なんて、三日にあげず通っている。 そういう場面に遭遇したら、いったいどうしたらいいんだ? 耳をふさいで通り過ぎる? 抗議する? ひとりなら自分ひとりの問題なのだが、子供を連れていたりしたら、子供にどうやって説明したらいいんだろうね。 冷静に、とか、毅然として、とか、口で言うのはたやすいのだが、実際にはそんなにかっこよくいくものではない。まあ、心の準備がないよりは、あったほうがまだ少しは適切に行動できるかもしれない、ということで、この時点でそういう暗い将来を思い描ける、ということは、まだよかったのかもしれない。

上に掲げた文章は、2009年4月12日付のわたしの書いたブログである。

あす26日、この「暗い将来」が現実化し、宇都宮にレイシストどもがやってきて、ヘイトスピートをわめきちらすそうである。 http://www.koudouhosyu.info/nkantou/scheduler.cgi?mode=view&no=5

「レイシストども」とか「わめきちらす」とか、聞き苦しいとは思う。ほんとうは、自分の悪口雑言の能力を総動員して罵りたいところなのだが、この程度で押さえているというのが正直なところである。

朝鮮学校無償化の問題で小山じゃなくて宇都宮か? とも感じたが、こんなもの口実であることはわかっている。もちろん、自分の住む土地じゃなければ、やつらがのさばってもいいなどとはまったく思っていない。

「街宣」とやらの現場は、うちから車で20分程度。しょっちゅう通っている場所だが、わたしは現場に行くつもりはない。

このことを知ったとき、高校生の息子にどう伝えるかしばらく悩んだが、結局こういうことがあることを説明して、この日は駅前に近づかないように注意した。

当事者である在日同胞たちが、たくさんカウンターに参加しているのは知っているし、わたしの友人たちもいる。

行かないことに決めたのはずいぶん前で、今回自分の街で行われるということから再考してみたが、やはり結論は変わらない。

でも、平気じゃない。後ろめたい。

わたしが情けない気持ちになっても、なんの役にもたたないし、まだ反差別の主張をきちんと書いたほうがマシなのかもしれないが、そういう気分でもない。

なんの生産性もない駄文であるが、とりあえずなにか書いて整理しないと仕事に集中できないので、書いてみた。ぜんぜんすっきりしないが、こういう自分を受け止めるしかない。

2015年7月9日
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社会から断絶して動物になるということ

最初の子供を産んだのは25才のとき。

子供は生まれつきかなり大きく(3,850g)、母乳はあふれるほど出て、6ヶ月で10キロ弱と発育も上々。

母乳が思うように出なくて悩んでいる、悩んだ人からすると、うらやましい状況だろう。はい、たいへんラッキーな人間です。

でも、授乳している時期はとてもつらかった。

ひとことでいうと「赤ん坊に縛り付けられている」と感じていました。

授乳間隔は、昼間は2時間、夜は3時間くらい。新生児期だけじゃなくて、半年くらいそんな感じだった。2時間おきに15分から20分の授乳時間。しかも、なかなか寝ない子で始終抱いている状態。睡眠不足でふらふらでした。

こんなにしょっちゅう泣いておっぱいを求めるんだから、ひょっとして母乳が足りてないんだろうか? と悩みました。発育がいいんだからそんなわけはないんだけど、当時はそういう客観的な視点はもてなかった。寝てないし、自由に外出することもままならない状態なので、視野がせまーくなっていたわけですね。

で、ミルクを飲ませようとしてみたが、哺乳瓶はまったく受け付けず。乳首がいやなのかな、とシリコン製とか、形が人間の乳首に近いものとか試してみたが、すべてだめ。

離乳食をはじめるまで、ミルクはおろか、白湯すら飲まず、母乳オンリーでした。

3ヶ月検診で「太りすぎじゃないですか? これ以上体重が増え続けるようなら、授乳は制限したほうがいいかも」などと言われ、母乳なのにどうやって制限するんじゃ、狭いアパートに赤ん坊とふたりでいるのに、泣き続けるのをほっとけというのか、と腹がたったのを覚えている。

体格がいいだけあって、泣き声も堂々たるもので、入院しているころから、ほかの赤ちゃんたちと比べて「うちの子、声でけぇ(^^;」と思っていたのだから、数カ月後は推して知るべし。

赤ん坊が飲みきれないのを放っておくと、痛いし、乳腺炎の危険もあるのでしぼって捨てるわけですが、これも肩こるし、うまくしぼれない。電動の搾乳器まで購入したけど、かえって手動のほうがいいくらいでしたね。

たくさん飲む子は当然出すものも多いです。 母乳の子は便がゆるめなので、しょっちゅうおむつカバーまで汚れてしまい、洗濯が間に合わないくらい。最初は布おむつを使っていたけど、早々に挫折して紙おむつに。

着るものは前開きに限られるし、自分の胸からいつもむっとするような生臭い匂いがするし、ひとつひとつは別にたいしたことではないんだけど、上記のような状況だったので、さらに意気阻喪してしまう。

離乳食を始めたら、なんでもよく食べるので、8ヶ月のとき、早いのはわかっていたが、思い切って断乳してしまいました。正直、これ以上はムリという感じで、夫も実母もだれもなにも言わなかった。それで、やっと人間らしい生活に戻れました。

人間がこれだけ自然から離れてしまっても、出産、授乳という営みは動物のときのまま。わたしにとってのひとりめの授乳期は、社会から断絶して動物として生きていたような感覚だった。

赤ん坊が自分の胸でこくこくと乳を飲み、満足してまどろむのを見るのは幸せだったのは確かだけど、まあ、程度問題ということです。

ちなみに、件の赤ん坊はいまは26才の青年になり、身長は170センチ、痩せ型です。