昨年12月に舅の弟(養子に出ていた)が亡くなり、舅姑は喪中ということで、「今年はお正月しないから」と言われていた。
例年、実家に帰省して韓国式の正月を過ごすことが多いのだが、自宅にいるときは、簡単ではあるがおせちの用意をしていた。
今年は下の息子が受験生ということで、帰省はせずに家で過ごす正月だ。義父母は泊まりがけでどこかに出かけて年越しするということで、夫、息子の3人である。
さて、そうなると、なにを作ろうか。
予定では、ナムル3種、トゥブブチム(豆腐の焼いたの)、丸鶏の蒸したの、肉のスープのつもりだった。
しかし、年末風邪をひいてしまい、大掃除もしないでほとんど寝て過ごす有様。31日はだいぶ回復したので、夕食後に、正月用の料理をつくるつもりだったが、力尽きて寝てしまった。
というわけで、元旦の朝7時に起き(別に用事はないので、夫と息子は寝ている)、できた料理がこれである。たったこれだけなのだが、病み上がりとしてはまあまあがんばった結果。
でも、正月だからといって、伝統的な料理を作らなければいけないなんて、だれかに言われたわけでもなく、「9時に正月のあいさつするから起きるように」と言い渡された夫と息子は迷惑げだった。
わたしの実家では、正月は祭祀/チェサ(ほんとは茶礼/チャレというらしいのだが、やることはチェサといっしょなのでチェサですましていた)をするので、何種類もの韓国料理を大量に作るのが恒例だった。まあ、それがしみついているといえばそれまでなのだが、なにもしなくてもいいはずなのに、なにもしないと、自分自身が気持ち悪いのである。
実家の母も、舅姑も夫も亡くなり、いまでは家の主人なので、チェサをしようがしまいが、母の選択にまかされている。しかし、50年以上、年に10回も続けてきたチェサのしたくを急にやめるのも抵抗があるようで、規模を縮小し、回数も減らして続けているのである。
わたしに関しても、年中行事などはほとんど興味がなく、子供のためにやっていると思っていたが、長年続けていると、案外そうでもないようである。
韓国の女にとって、チェサのしたくというのは、いやでもやらざるを得ないたいへんな労働だった。夫の親と別居していても、このときは一族郎党集まって女たちは台所にこもって料理に勤しむので、姑小姑相嫁などとつきあう心理的な負担も大きかった。
でも「別にやらなくてもいい」「自分の好きにしていい」という状況になっても、すっぱりやめられないというのは、いったいなんなんだろうなぁ。少なくとも、わたしについて言えば、伝統文化を守るなんて気はさっぱりなく、儒教くそくらえと思っているくらいなのに。
もちろん、心理学的にどうだとか、あれこれ御託を並べることはできるが、正直あんまりやりたくない。
来年は体調に気をつけて、もっとたくさんの種類を作ろう、母にもやり方をよく聞いておこう、なんて思っているくらいである。