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個人的なあれこれ。

特別永住に至る法的地位の経緯

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まずこちらをご覧ください。大阪府のサイトです。
 在日韓国、朝鮮人の在留(←リンク切れになっていますが、内容は下に引用してあります。2009/10/11 追記)
これ以上短くできんというくらい、簡便にまとめてありますね(笑)
この文章に沿って、少し説明してみようと思います。

第2次大戦終戦前から戦後引き続き日本に在留している韓国人、朝鮮人又は台湾人は、1952年平和条約発効により、日本国籍を喪失したが、在留資格、在留期限の定めがなくても在留ができ、活動の制限はない (法126の2の6)。

法126号というのは、正式には「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づく外務省関係諸命令の措置に関する法律」という長い名前の法律です。入管法第○条ではありません。

朝鮮が日本の一部だった時代、日本人として「外地」からパスポートを持たずに「内地」に渡ってきた一世と、日本の敗戦までに生まれた二世が、この法律の対象となりました。それまでは、外国人ではなかったので、とくに在留期間も定められず、就労などの日本国内での活動に制限はなかったのですから、現状を追認したものだといえます。

わたしの家族についていえば、父方母方双方の祖父母、両親が持っていた在留資格がこの法126-2-6 でした。

そして、わたし自身は、1963年生まれなので、最初の在留資格は「4-1-16-2」というものだったはずですが、自分ではぜんぜん覚えてません。

(参考 入国管理今昔 Vol.6 – Newton 行政書士の世界)←リンク切れになっています。下記のpdfをご参照下さい。(2019/02/17 追記)

入国管理今昔 ~在留資格「4-1-4」「4-1-6」「4-1-16-1」~/行政書士 林 幹」 

その後1965年12月日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定 (日韓地位協定) が締結された。これに伴い、1945年8月15日以前から申請の時まで引き続き日本に居住している者、および直系卑属として1945年8月16日から協定発効から5年以内に日本で出生した者はその後申請まで引き続き日本に居住した者は、申請により永住権が付与された (協定永住)

法律126号は、確かに間に合わせの法律で、戦後生まれた人たちの在留資格が不安定でした。(在留期間は3年。ただし、期限が来て更新に行けば、とくに審査もなく、ほとんど自動的に更新されていたようです)そこで、法律126号対象者の子孫にも安定した法的地位を付与しようと、「協定永住」という在留資格が作られました。

ただ、この法律では、「韓国籍」への切り替えが必要だったため、あえて申請せず、法律126号にとどまる人たちがかなりいました。祖国の分断状況が、在日社会へも持ち込まれたわけです。

また、一般の永住資格より緩和されていたものの、退去強制条項はあり、協定永住一世(1965年現在で、日本に在留していた協定永住申請者。いわゆる一世、二世とは意味が違い、1963年生まれのわたしも、協定永住一世にあたる)から数えて、孫までしか永住権が保障されず、それ以降については、先延ばしにされていました。 
 

1981年、法126の2の6とその子について、1982年から5年間に限り、申請により無条件で永住が許可された (特例永住)。

ここでまた「特例永住」という新たな在留資格が出てきます。「協定永住」をとらなかった法126号系統の人たちが対象となりました。で、なにが「特例」なのかというと、「申請により無条件に永住資格が許可された」という点だけで、「協定永住」のように「一般永住」とは別の規定がおかれたものではありませんでした。

そして、1991年に至って、やっと「特別永住」という資格が出てきます。「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」(入管特例法)が制定され、今度は申請ではなく、対象者全員の在留資格が自動的に切り替わりました。これによって、旧植民地出身者の在留資格がやっと一本化されたわけです。

「特別永住」と「一般永住」が違う点は、一般永住者の子が自動的に永住資格を付与されないのに対して、特別永住者の子であれば、特別永住者となるということと、退去強制事由が、緩和されているということの2点です。

退去強制自体がないわけではありません。また、日本からいったん出国して、再入国許可の期間内に戻らなかったりすれば、永住資格もなくなってしまいます。

長々と説明しましたが、1947年の最後の勅令「外国人登録令」によって、日本国内に突然60万人以上の「外国人」が出現したわけです。要するに特別永住者というのは、その子孫であり、戦前に日本に在留資格も在留期間もなく住んでいた(日本国籍なので当たり前ですが)、その既得権を受け継いだ人たちだということができます。

特別永住者の問題を、他国の入管政策との比較の中で考える場合は、旧宗主国の国内に住んでいる旧植民地出身者の処遇と比較することが必要です。「移民」や「難民」ではありません。

植民地を解放する際には、宗主国内にいる植民地出身者には、国籍を認めることも含め、特別な法的地位を与えるのが通例です。その国の国籍法が生地主義であれば、二世以降はその国の国籍を取得するわけですし、血統主義であっても、自国内で出生し、引き続き定住している人たちには、多くの国が申請のみによる国籍取得を認めています。少なくとも、旧宗主国の中で、在日韓国朝鮮人のような立場の人たちを、二世以降、何世代にもわたって、外国人のまま処遇しているのは、日本だけです。

もちろん、これについては、在日の側から国籍を求める声が少なかった、という点も指摘しておかなければなりません。その理由としては、どちらも「単一民族」であるという幻想を持った日本と韓国というふたつの国の狭間にあって、国籍=民族という考えからなかなか脱却できないということが一点、もう一点は、民団と総連の対立の中で、どちらも国籍によって団員をつなぎ止めておく必要があったという点、が考えられます。

なまじ日本人とは異なる国籍を持っているがために、国籍がアイデンティティの証明になってしまい、子供に民族教育を受けさせた一部の人をのぞいて、民族としての内実になるべき、言葉や習慣などの伝達が行われなくなってしまったのは、くやんでもくやみきれないことだなぁ、と思います。といっても、過ぎ去った月日は元に戻せないわけで、日本で生まれ育ち、ずっと日本名を使い、言葉もわからないし、外国人登録証の切り替えか、パスポートをとるときでもなければ、自分の国籍さえも意識しない人が大多数である、という現在の地点から、考えていくしかないわけです。

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