Green Fish

個人的なあれこれ。

2020年12月27日
から greenfish
0件のコメント

女だけの街

『眠れる美女たち 上』スティーヴン・キング オーウェン・キング 白石朗 | 単行本 – 文藝春秋BOOKS

『眠れる美女たち 下』スティーヴン・キング オーウェン・キング 白石朗 | 単行本 – 文藝春秋BOOKS

いつから読んでたっけ? というくらい時間をかけて読了。

上巻はダラダラ読んでいたのだが、さすがに下巻に入ると勢いがついて、ほとんど一気読みだった。

息子のオーウェン・キングとの合作ということだが、言われなければほとんどわからない、キング印。ホラーというよりファンタジーだ。とはいっても、キングはキングなので、スプラッタな場面はけっこう出てくる。

で、ここから先はネタバレである。未読の方は、ご自分の判断でお読みください。

女たちが正体不明の疫病[1]実際は病気というわけではないのだが、そのように解釈されている。にかかり、眠り込んだまま目覚めなかったら、男たちはなにをするか。

暴れるのである。

病院には人が殺到し、眠り込まないために覚醒作用がある薬を求めて、ドラッグストアは荒らされる。まあ、ここまではわかる。

眠っている女たちは、繭に包まれている。なんとか起こそうとして、その繭を破ったりすると、おそろしく凶暴になって襲いかかってくる。このへんは、ゾンビものっぽい感じ。破ったものはたいてい殺されてしまう。そこで、そうなる前に火をつけて、眠ったまま焼き殺す。これも、そういう状況ならそうなるだろうなぁ、と思う。

そして、世界中で暴動が起こる。

えーと、暴動? 政府になんとかしろってこと? ここまで来ると、なにを求めているのか理解不能である。

要するに、ふだんなら止めてくれる女たちがいないから、好きなだけ暴発したということのようだ。

ミソジニストのクソのような、理屈になっていない理屈も、さんざん展開される。

男はどうこう、女はどうこう、という主語の大きな話はいただけないが、思考実験としてはそりゃこうなるよね、ということで、とても臨場感があり、あるあるある~、の連続である。

そして、眠った女性たちは、ただ眠っているのではなく、同じ地球上で同じ街なのだが、時間の流れが異なる別世界で目覚めている。

しばらく前に Twitter で #女だけの街 という話題があったが、まさに小説の中で、それが展開されるのである。これもまた臨場感たっぷり。

男がいなくても、なにも困らない。

いままで男に虐げられていた女たちは、平和な生活を手に入れる。

もちろん、女だって完璧なわけではないが、いさかいが暴力的に解決されることがあまりない世界である。女がいなくなって、男たちが暴れに暴れたのとは、まったく対照的だ。

妊娠している女性たちは、その街で出産するのだが、当然男の子も生まれてくる。また、話に出ただけで実現はしないが、精子バンクを探して、新たに妊娠する可能性も語られる。要するに、持続可能性もある。

そうなれば、女だけの街ではなくなるのだが、男がいないところで、女だけで教育した男は、それまでの男とはやはり違ってくるだろう。それが何世代も続いたら? ユートピアにはならないだろうけど、いまとはずいぶん異なった社会になるのは、容易に想像がつく。

結局、女たちは、主に息子かわいさに、元いた場所に戻ってくる。

これが違う結末だったら、SFになるわけよね。そういうのも見てみたいね。

References

1 実際は病気というわけではないのだが、そのように解釈されている。

2020年11月29日
から greenfish
0件のコメント

生身の体

リモートで研修をし、アンケートを見ると、必ず「次はリモートではなく直接指導してほしい」という類のコメントがある。

正面のスクリーンにわたしの顔がでかでかと(もしくは、投影資料の横に小さめに)写っており、お互いに話もできる。質問も受けているし、休憩時間に雑談もしたりしている。研修の内容を伝えるのに、不便な点はない。

生身の体があるとないとで、なにが違うのか、正直不思議だ。

恋人や家族だったら、直接体に触れたいという気持ちは当然だけど、初対面だし、研修の講師と参加者だよ? そもそも触ることはありえないし、触る以外に生身の体が必要なことってなんだろう。

慣れているか慣れていないか、というのが、わたしと「直接指導してほしい」という人の間に横たわっている深い川の正体なのか。

それともうひとつ、わたしがコンテンツにしか興味がない、というのもあるかもしれない。

若い頃は、本を買うとカバーも帯も箱もすぐゴミ箱行きだった。「本」という物体は重くて邪魔で、中身の文字列さえあればよかった。だから、電子書籍が出たときは、これでやっとわたしのほしい「本」が手に入る、と思ってとてもうれしかった。

さすがにいまでは、装幀の大切さとか必要性も理解しているので、ガワは全部捨てるなどという乱暴なことはしないが、それはあくまで「他の人にとっては」で、わたしにとってはなくても全然困らないものだ。

研修においても、講師の話と、資料、双方向のコミュニケーションというコンテンツが保証されているのに、これ以上なにが必要なの? と思ってしまう。

このあたりは、なかなか理解されない感覚かもねぇ。

2020年11月28日
から greenfish
0件のコメント

タラのフライとフィッシュアンドチップス

うおえいのランチ。

この日は、写真のタラのフライと、サバの味噌煮の2種類だった。土曜はランチがあるので狙い目である。

このフライが、衣はサクサクしていて、中は肉厚でしっとりジューシーでたいへんけっこうでした。しかし、ふつうに感想を述べているだけなのに、なぜすごく手垢のついたCM調になってしまうのか。

ソースと皿についている真っ黄色の辛子でもよいし、ワサビと醤油でも合う。

ご飯はたぶんお茶碗2膳分くらいあり、とても食べ切れる量ではないが、おかずのほうは完食。

タラのフライというと、フィッシュアンドチップスだが、この写真のようにパン粉を使ったものではなく、衣は小麦粉と片栗粉だけのようだ。ビネガーをかけるのが定番だというが、そういう食べ方は試したことがない。

宇都宮でそういうスタイルで出している店があるかどうかわからないが、夜飲みに出かけることもめったにないので、食べたければ自分で作ったほうが早いね、たぶん。

2020年11月22日
から greenfish
0件のコメント

いきものたちはわたしのかがみ

宇都宮美術館で開催されている「いきものたちはわたしのかがみ」という企画展に行ってきた。

うららかな日和。
見るといつも撮りたくなる彫像。きょうは横から。
1万人突破だとか。
なかなか楽しい展示でした。

この日は、ランチ後に手元用のメガネを作りに行ってミッションコンプリート。

2020年8月15日
から greenfish
0件のコメント

『パチンコ』-よく知っている世界だがよそよそしい

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163912264

==ネタバレ注意! 小説の後半のストーリーにも触れています==

とてもおもしろい。上下巻の大作だが、ほとんど一気に読んだ。

一読後、最初の感想は「よくできた韓ドラのノヴェライズみたい」だった。

ソウル生まれの韓国人が、アメリカで高等教育を受けて成人し、日本で多くの在日に取材して書いた小説。アメリカでベストセラーになった話はそのころから日本でも紹介されていて、早く読みたいものだと思っていた。なにせ、わたしの実家の家業はパチンコ屋である。

一方で、原書で先に読んでいた友人知人たちの「われわれ(在日)が読むとびみょー」という評もかなり一致したものだった。まあ、それはそうだろう。英語で書かれたもので、韓国人というつながりがあるとはいえ、当事者でもない人がわれわれの複雑な事情や心情を、そう簡単に描けるわけがない。そのようにも、思っていた。

わたしは細かいところが気になるたちなので、実際読んでみると、「この当時これはないよね」「こんなことありえないよね」という、リアルでない部分、事実として間違っている部分はかなり鼻についた。しかし、この本の由来を考えると、それは当然だし、自分のよく知っているものが物語として描かれると、たいてい違和感を覚えるものだ。

訳者は英米小説の翻訳で実績のある人で、そういう意味では訳文は悪くない。在日の事情に通じた人に監修でもしてもらえば、もう少しそういう違和感はマシになったと思うが、そもそも日本人に向けて出版されるものなのだから、少数の当事者が納得しようがしまいが、別に関係ないのだろう。

自分のよく知っているものが描かれているのに、「韓ドラのノヴェライズ」と感じたよそよそしさは、そこが原因ではない。

この小説の主人公ソンジャは、釜山にほど近い島で生まれ育った女性で、その半生は生活のための苦闘だ。素朴で、働き者で、情愛深く、子供や孫のためならどんな労苦もいとわない、わたしの知っている一世のハルモニたちと共通するキャラクターだ。

義姉のキョンヒも、裕福な両班出身の女性だが、明るく思いやり深く、夫が長崎で被爆して重症を負い、不機嫌をまきちらす扱いにくい病人になっても、決して見捨てない。こちらも、この時代の女性なら、こういう人いただろうなぁ、と素直に受け取れる。

しかし、男性のキャラクターはどうだろうか。

ソンジャの父フニは、障碍者でとくに教育を受けたわけではないが、知性も人間性も優れた人として描かれている。3人の子供を生まれてまもなく失い、やっと育ったソンジャを宝物のように大切にし、愛情を惜しみなく注ぐという設定だ。

正直いって、障碍があるという設定でもないと、こういう人物像はぜんぜん説得力なかっただろうと思う。

そして、ソンジャの夫となるイサクは平壌の地主の出身で、敬虔なクリスチャンであり、教養もある。自分の持っているものはすべて与えてしまう無私の人として描かれている。

この人物像が浅いというわけではないのだが、「こういう人もいたかもねぇ。見たことないけど」という印象は受ける。

舞台を日本に移して、イサクとソンジャの息子であるノアとモーザス(みな韓国人らしくない名前だが、聖書からとっている)は、ほぼわたしの親と同世代だが、誠実で、女性を下に見ることもなく、妻子に愛情を注ぐ。

モーザスの息子であるソロモン、こちらはわたしと同世代だが、彼も、在日の裕福な家庭で大切に育てられながら、クソ男にならなかったという、なかなか稀有なキャラクターだ。

ソンジャの最初の男性であるハンスは、やくざ者だが、ソンジャには終生尽くし、それなりに誠意のある人物として描かれている。

妻子に対する暴力や、飲んだくれて働かない男や、浮気や賭け事や、そういうものは出てこないのである。男だけの問題ではなく、姑の嫁いびりも出てこない。

要するに、この物語の女性たちは苦労はするが、それはひどい舅姑、夫のせいではないのである。とくに男性陣は全員できがいい! ファンタジック!

もちろん、わたしの友人知人の在日男性で、まともな人はいくらでもいるが、構造的にスポイルされやすい立場にいるのも確か。その構造がなんであるかはいちいち述べないが。

まあ、「在日の男はひどい」路線で行くと『血と骨』の二番煎じになるだけで、現代のアメリカの読者には、共感されなかっただろうけど。

そして、在日といえばもうひとつ大きなテーマが、二世以降のアイデンティティを巡る悩みだろう。わかりやすい差別は描かれていて、それももちろん大問題だが、敵がはっきりしている分、まだいい。それより苦しいのは、自分が何者かわからない、わかっても受け入れられない自己否定、そういうものだ。

ノアは自己否定の果てに自死を選ぶ。

モーザスとその子ソロモンについては、そういう葛藤は描かれず、自然に自分の境遇を受け入れているように見える。しかし、ある程度知性のある人が、民族学校にも行かず、「自然に」在日である自分を受け入れられるだろうか? これもありえないとは言わないし、なにもかも描く必要もないしそんなことは不可能だが、そこをパスする? という気分にはなる。

これも描いていない、あれも描いてない、と文句ばっかり言っているが、ひとつ共感したのは、ノアの大学時代の恋人とのエピソードである。知的で、生意気で、奔放で、両親のことを人種差別主義者と呼んでいるが、なんのことはない、朝鮮人の恋人は、彼女にとって自分が善良で知的でリベラルである証明書にすぎなかったという話。

出生の秘密、失踪、非業の死、不慮の死、極端な経済的な成功。やっぱり、これは韓ドラの世界だ。

おもしろいから別にいいんだけど。

フィクションはフィクションだという当たり前の話でしかないけど。