実際のところ、夫婦別姓を選べる規定を民法に盛り込んだところで、男女同権だの、家族の一体感だの、別姓選択可能法案(長いし、見かけない言い方だが、「別姓法案」というと「同姓か別姓か」という二項対立の印象を与えてしまうので、あえてこう書く)に賛成反対の双方が持ち出している論点には、あまり大きな影響はないんじゃないかと思う。別姓が選択可能になったら、実際に別姓にしたいと答えている人は、大体1割くらい、というアンケート結果を以前見たことがあるが、実感としてもだいたいそんなところだろう。1割という数字が社会に与える影響はもちろん無視できないが、短いスパンで大きく変わるという数字でもない。
別姓選択可能法案の持つ本当の意味は、実は社会的規範の逸脱者へのペナルティーがひとつ減る、というところにある。
民法で夫婦どちらかの姓を選ぶ、ということになっていても、実際には男性の姓を選ぶ夫婦が9割以上、という結果は、当然ながら、そこに「妻は夫の姓をなのるべき」という社会的規範が働いているからである。それを無視すると、嘲笑や噂の的にされたり、親やうるさい親戚に意見されたりと、さまざまな不愉快を味わうというペナルティーがつく。
日本では20代からせいぜい30代前半に結婚して、ふたり程度の子どもを持ち、結婚後は夫の姓をなのり、妻は専業主婦になるという社会的規範があって、結婚しない人、子どもを持たない人、妻が結婚後も外で働いている人、または、夫が外で働いていない人、離婚した人、その他もろもろ、規範から逸脱している人には、税制、社会保障制度上不利な立場におかれたり、他人からごちゃごちゃ言われるという精神的苦痛を味わうことになる。先ほど述べたように、結婚後も双方が改姓したくない人たちに与えられるペナルティーもこの一環である。
昔から、経済力とか精神力とか芸術的才能とか、性的魅力ってのもあるな、などなど、なんらかの能力を持つ人たちは、ペナルティーなどものともせず、望めばこういう社会規範の埒外にいられた。能力というとおおげさだが、結婚後も別姓を続けたいと思えば、現状でも法律婚をしなければいいだけのことで、税制上の扶養家族の枠に入らない経済力を持ち、他人からなにか言われても受け流す精神力を持っていれば可能という、その程度の話である。だが、大多数の人は、「そういうものだ」と思って、それらの規範を受け入れている。意識はされていないが、その底には、逸脱した場合のペナルティーへの恐れがあるのは間違いないと思う。
大半の人が、社会的規範が定める生き方を自らしたいと望んでいる社会というのは、治める側にとっては、ものすごく手間の省ける、安上がりな社会である。年寄りの面倒は家族で見るべき、という規範ひとつをとっても、それが崩れかている今、どのようなコストをかけて老人介護を社会的なシステムとして構築しなければいならないか、考えただけでも、わかるだろう。経済的な面だけではなく、いろいろな意味で、きゅうくつに慣れている国民には、別のきゅうくつもおしつけやすいし、多少の不満はあっても「そんなものだ」という納得も得られやすい。
こう書くと、「最近はそんなでもないんじゃない?」という声が出てきそうだが、実際、わたしが覚えている限りでも、10年前、20年前と比べると、社会的規範の強制力は、明らかに緩んできている。そして、いまの日本を支配している層が、それに危機感を感じていないとは、とても考えられない。民法の別姓選択可能法案に反対している人々のほんとうの意図は、社会的規範の緩みをこれ以上放置できない、という危機感にあるのではないか、というのが、わたしの推論である。もちろん、選択肢が増えること自体がよくない、なんてことは、おおっぴらに言える話ではないから、あくまで推論にしかならないが。状況証拠は山ほどあると思うがどうだろうか。