元詐欺師・逮捕歴有りの新風のオヤジが在日韓国人青年に喧嘩売る→ぶっ倒され泣き言(笑) – dj19の日記</a>
道を歩いていてヘイトスピーチを否応なく耳にすることが、これからあるかもしれない、という可能性に思い至って、かなり頭が痛い。宇都宮でも、昨年似たような団体(というか、構成員はだいぶかぶっているようだが)が、宣伝活動をしていたらしい。この動画に出てくる宇都宮地裁前なんて、三日にあげず通っている。
そういう場面に遭遇したら、いったいどうしたらいいんだ? 耳をふさいで通り過ぎる? 抗議する? ひとりなら自分ひとりの問題なのだが、子供を連れていたりしたら、子供にどうやって説明したらいいんだろうね。
冷静に、とか、毅然として、とか、口で言うのはたやすいのだが、実際にはそんなにかっこよくいくものではない。まあ、心の準備がないよりは、あったほうがまだ少しは適切に行動できるかもしれない、ということで、この時点でそういう暗い将来を思い描ける、ということは、まだよかったのかもしれない。
ところで、この記事に、わたしがつけたブックマークコメントである。
公の場でのヘイトスピーチを取り締まる法律がないことのほうが問題。/警官に取り囲まれ、連行される青年が自分の息子のように見えて涙出た。/はてなブックマーク – 2009年4月9日
このコメントには、いままで覚えがないほどの、たくさんの はてなスター(おそらくは同意の印)をいただいた。
わたしは、在日朝鮮人で、この動画に映し出された青年と似たような年頃の息子がいる。そういう個人的な事情はなくても、民族的な罵倒を行う相手につかみかかった青年が、孤立無援のまま、警官に連行されるのを見て胸が痛む、という心情には、共感を呼ぶところが多いのだろう。青年の行動に対しても、単純に「暴力」ととらえていいのか、という見方が多いように思える。まあ、それ自体は、確かに心強いことではある。
しかし、このたくさんの「はてなスター」は、ヘイトスピーチに対する法的規制の必要性についての、同意の印でもあるのだろうか?
簡単に同意できるような問題ではないことは、よく知っている。表現の自由への侵害、ということだけでなく、規制が権力の側の都合のいいように使われる、ということへの恐れを語る人が多いのも、わかる。わたしのように、現実的に自分が被害を受ける可能性のない人が、そこで止まってしまうのも、わからないではない。
でも、ヘイトスピーチの被害を受けるのは、そのターゲットにされている、マイノリティだけなんだろうか。民族的対立をあおることは、社会の治安に対する大きな脅威なんじゃないの?
なにかを規制するということは、当然弊害も伴う。だがそれも、野放しにしておいたときに、どういう事態が起こるか、という判断とのバランスの問題だし、弊害をどれほど押さえ込むか、という知恵の問題だろう。
マイノリティがかわいそう、という人間的共感はそれは大事だけれど、それだけでは、多数派が迫害される可能性を増やすのなら、少数派はちょっとがまんしとけ、という「現実的な判断」には対抗できないように思う。
それと、前科の話が本当かどうかわからないが、それをどうこう言うのは、別の種類の偏見を垂れ流しているだけでしょう。下品だという以前に、人権を守るという意味で問題だ。そんなことを持ち出さなくても、「いたたたたたー」という、うれしそうな声を聞いただけで、十分この男の内実なんて知れるというものだ。
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