オウム真理教(現アレフ)の信者が、転入先で地域住民の移転反対運動にあい、住民票の受理を拒否される、という事件が続いたころも、わたしは完全に信者側にたってことの推移を見ていた。地域住民から強い不信感、不安感が表明されれば、法の保護は、もう彼らには与えられないのだ。
現段階では、裁判に信者側が勝っている地域もあるので、法の保護は期待できない、というわけでもないのだが、そのころは、そのニュースを見るたびに、恐怖でいっぱいになった。アレフ信者が怖いのではなく、地域住民が怖かったのである。
ところが、夫を含めて、わたしの周りのちゃんとした見識を持っていると思っていた人たちが、だれも口をそろえて「理屈はそうだろうけど、実際にオウムが近くに越してきたら怖いよ。住民の対応は無理もない」という意見だったので、わたしはますます落ち込んだ。
人間がもっとも残酷になるのは、恐怖にかられたときである。やらなければ自分がやられる、と思えば、ふだんは分別のある善良な人でも、驚くほど無慈悲に暴力をふるうことができる。韓国映画の「JSA」を見た人、原作を読んだ人なら、すでに絶命した相手に何発も銃弾を打ち込む、という残虐な行為が、どんな感情から出てきたのか、すぐに思い当たることだろう。
風貌、言葉、習慣の違う外国人は容易に「怖い」「気持ち悪い」という対象になってしまう。そして、「善良な市民」に恐怖されれば、彼らの攻撃にさらされるまでの距離は、ほんの少しなのである。
理由もなく恐怖される恐怖。そんなものにおびえるのは、考えすぎなのだろうか。
(原文は当時の Web 日記へのリンクがあるが、文意を変えない範囲で修正してあります。2021/07/25)