https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163912264
==ネタバレ注意! 小説の後半のストーリーにも触れています==
とてもおもしろい。上下巻の大作だが、ほとんど一気に読んだ。
一読後、最初の感想は「よくできた韓ドラのノヴェライズみたい」だった。
ソウル生まれの韓国人が、アメリカで高等教育を受けて成人し、日本で多くの在日に取材して書いた小説。アメリカでベストセラーになった話はそのころから日本でも紹介されていて、早く読みたいものだと思っていた。なにせ、わたしの実家の家業はパチンコ屋である。
一方で、原書で先に読んでいた友人知人たちの「われわれ(在日)が読むとびみょー」という評もかなり一致したものだった。まあ、それはそうだろう。英語で書かれたもので、韓国人というつながりがあるとはいえ、当事者でもない人がわれわれの複雑な事情や心情を、そう簡単に描けるわけがない。そのようにも、思っていた。
わたしは細かいところが気になるたちなので、実際読んでみると、「この当時これはないよね」「こんなことありえないよね」という、リアルでない部分、事実として間違っている部分はかなり鼻についた。しかし、この本の由来を考えると、それは当然だし、自分のよく知っているものが物語として描かれると、たいてい違和感を覚えるものだ。
訳者は英米小説の翻訳で実績のある人で、そういう意味では訳文は悪くない。在日の事情に通じた人に監修でもしてもらえば、もう少しそういう違和感はマシになったと思うが、そもそも日本人に向けて出版されるものなのだから、少数の当事者が納得しようがしまいが、別に関係ないのだろう。
自分のよく知っているものが描かれているのに、「韓ドラのノヴェライズ」と感じたよそよそしさは、そこが原因ではない。
この小説の主人公ソンジャは、釜山にほど近い島で生まれ育った女性で、その半生は生活のための苦闘だ。素朴で、働き者で、情愛深く、子供や孫のためならどんな労苦もいとわない、わたしの知っている一世のハルモニたちと共通するキャラクターだ。
義姉のキョンヒも、裕福な両班出身の女性だが、明るく思いやり深く、夫が長崎で被爆して重症を負い、不機嫌をまきちらす扱いにくい病人になっても、決して見捨てない。こちらも、この時代の女性なら、こういう人いただろうなぁ、と素直に受け取れる。
しかし、男性のキャラクターはどうだろうか。
ソンジャの父フニは、障碍者でとくに教育を受けたわけではないが、知性も人間性も優れた人として描かれている。3人の子供を生まれてまもなく失い、やっと育ったソンジャを宝物のように大切にし、愛情を惜しみなく注ぐという設定だ。
正直いって、障碍があるという設定でもないと、こういう人物像はぜんぜん説得力なかっただろうと思う。
そして、ソンジャの夫となるイサクは平壌の地主の出身で、敬虔なクリスチャンであり、教養もある。自分の持っているものはすべて与えてしまう無私の人として描かれている。
この人物像が浅いというわけではないのだが、「こういう人もいたかもねぇ。見たことないけど」という印象は受ける。
舞台を日本に移して、イサクとソンジャの息子であるノアとモーザス(みな韓国人らしくない名前だが、聖書からとっている)は、ほぼわたしの親と同世代だが、誠実で、女性を下に見ることもなく、妻子に愛情を注ぐ。
モーザスの息子であるソロモン、こちらはわたしと同世代だが、彼も、在日の裕福な家庭で大切に育てられながら、クソ男にならなかったという、なかなか稀有なキャラクターだ。
ソンジャの最初の男性であるハンスは、やくざ者だが、ソンジャには終生尽くし、それなりに誠意のある人物として描かれている。
妻子に対する暴力や、飲んだくれて働かない男や、浮気や賭け事や、そういうものは出てこないのである。男だけの問題ではなく、姑の嫁いびりも出てこない。
要するに、この物語の女性たちは苦労はするが、それはひどい舅姑、夫のせいではないのである。とくに男性陣は全員できがいい! ファンタジック!
もちろん、わたしの友人知人の在日男性で、まともな人はいくらでもいるが、構造的にスポイルされやすい立場にいるのも確か。その構造がなんであるかはいちいち述べないが。
まあ、「在日の男はひどい」路線で行くと『血と骨』の二番煎じになるだけで、現代のアメリカの読者には、共感されなかっただろうけど。
そして、在日といえばもうひとつ大きなテーマが、二世以降のアイデンティティを巡る悩みだろう。わかりやすい差別は描かれていて、それももちろん大問題だが、敵がはっきりしている分、まだいい。それより苦しいのは、自分が何者かわからない、わかっても受け入れられない自己否定、そういうものだ。
ノアは自己否定の果てに自死を選ぶ。
モーザスとその子ソロモンについては、そういう葛藤は描かれず、自然に自分の境遇を受け入れているように見える。しかし、ある程度知性のある人が、民族学校にも行かず、「自然に」在日である自分を受け入れられるだろうか? これもありえないとは言わないし、なにもかも描く必要もないしそんなことは不可能だが、そこをパスする? という気分にはなる。
これも描いていない、あれも描いてない、と文句ばっかり言っているが、ひとつ共感したのは、ノアの大学時代の恋人とのエピソードである。知的で、生意気で、奔放で、両親のことを人種差別主義者と呼んでいるが、なんのことはない、朝鮮人の恋人は、彼女にとって自分が善良で知的でリベラルである証明書にすぎなかったという話。
出生の秘密、失踪、非業の死、不慮の死、極端な経済的な成功。やっぱり、これは韓ドラの世界だ。
おもしろいから別にいいんだけど。
フィクションはフィクションだという当たり前の話でしかないけど。