わたしは1963年生まれで在日三世、ということは、祖父母が当時植民地だった朝鮮から日本(内地)にわたってきて、一世になったわけだが、ふたりとも日本に来た時は、まだ十代だった。その親の世代がいたわけだ。
祖母の母は早くに亡くなっていて、父親もわたしが生まれる前に亡くなったのだろう。会ったことはない。
祖父の両親は、わたしがかなり大きくなるまで健在だった。曽祖父が亡くなったのは、わたしが中学3年のとき、曾祖母は大学に入ってからだ。
祖父の一家が日本に来て長く住んでいたのが、近畿地方の海辺の小さな町(以下A町という)である。そこでパチンコ店を営んでいたが、長男である父が中部地方のとある町に住んでいたので、わたしが生まれてまもなく、その近郊(以下B市という)にもう一軒店を出し、祖父母が移り住んできたのである。
祖母は、祖父のその決断について、「孫可愛さのあまり」と言っていたが、県庁所在地の隣にあるB市は、人口が急増している地域で、もちろん経営的な判断もあったのだろう。店はすぐに軌道に乗り、ずいぶん景気がよかったそうだ。
A町には、以前からやっている店がそのままあり、もともと住んでいた家には、曾祖父母がいた。祖父の妹が、近居していて、店の責任者をしていた。
B市からA町までは、まだ新幹線のない当時、特急列車に乗っても半日がかりの旅程だった。祖父母も父も、たびたび往復して、曾祖父母やA町の店を見ていたのである。わたしの家族は、長らくA町に行くことを「Aに帰る」と言い習わしていた。
A町は美しい砂浜があるので有名な町だった。夏休みには、子どもたち、わたしの兄弟だけなく従姉妹たちも含めて、海水浴がてら、A町で1週間以上をすごす習慣だった。父とその兄弟が生まれ育ち、当時は曾祖父母だけが住んでいたその家はかなり広く、子供だったわたしには、楽しい思い出が詰まった夏の別荘のような場所だった。
A町は冬は屋根が軒にまで達する地域で、正月前後の数ヶ月は、祖父母はB市に来て過ごしていた。
というわけで、曾祖父母とは、遠く離れたところに住んでいたにも関わらず、小さい時からかなりの時間を一緒に過ごし、家族という意識もあった。また、晩年は介護の必要もあり、曾祖父母もA町をひきはらって、B市で同居していた。
その曾祖父母は、ふたりとも中年になって日本に来た人たちで、日本語はほんとうに片言程度だった。曾祖父母の話すのは、主に朝鮮語。当然、わたしたち子供は理解できない。
わたしの母は二世であるが民族教育を受けた人で、朝鮮語の会話はふつうにできたので、曾祖父母と話をする必要がある時は、祖母か母に通訳をしてもらうという調子だった。
家の中に言葉の通じない家族がいる、というのは、いまとなってはかなり特殊な環境だとわかるが、子供の頃は自分の境遇を周りと比べるなんてことはしないので、それがあたりまえだと思っていた。
ふつうに言葉が通じても、曾祖父母と曽孫、という関係で、会話がどれほどなりたったかはよくわからないが、祖母にたくさんむかしの話を聞いたように、曾祖母からも朝鮮に住んでいたころの話、日本に来た頃の話を聞いてみたかったと思う。
幼稚園からずっと日本の学校だったわたしが、朝鮮語を勉強するのは、大学に入ってからのことである。残念ながら、間に合わなかった。