んー、なんなんだろう、これは。ひょっとしてエセ同和団体とトラブルでもあったんだろうか。そうじゃなくて、外国出身ながら日本の経済界で成功した人が見せる過適応の結果だとしたら、それはそれで悲しいお話だと思うが。
自分の身にふりかかった不幸について、「悪いことばかりではない」というとらえ方は、よく見られることだし、個人的なことに限って言えば、なかなか有用な考え方だとも思う。たとえば、大病や大ケガをして長期入院したが、死を身近にとらえることによって、より生の大切さを感じた、とか、まわりの人の温かい気持ちに触れることができた、とかね。でも、だからといって病気をしたい人などいない。
差別は病気とは違って、差別をする主体というものがある。艱難汝を玉にす、じゃないけど、差別をされて強くなり、かえって成功しました、とか、心の豊かな人間になりました、なんてうるわしい話は、個人的な体験という文脈を離れると、えてして差別をする側を免罪することにつながる。
この世から病気というものがなくなる日は来ないにしても、病気の治療法の研究は営々として続けられているわけだし、病気は人間にとって宿命的なものだから、そんなことしてもムダだとか、病気になってしまっても明るく受け入れるしかない、なんて言う人もいないだろう。
しかし、こと差別についての話になると「差別は人間の本性だからなくならない」ということを、「だから差別をする/される」ことも当たり前、とめちゃくちゃなつなげ方をしてなにか言ったような気になっているのは、どういうことだろうか。
差別する側が、その理由として持ち出した被差別者の欠点が実際に克服されなければならないものだとして、それが差別を正当化する理由にはならない。玄関があけっぱなしで泥棒に入られたとしても、被害者がこれから戸締まりをきちんとしよう、と決意し、鍵をふたつもみっつもつけて自衛するのと、盗人を罰する必要があるのは、まったく別の話である。
確かに、差別される痛みを知ることによって、自分もまた差別をする主体であることを自覚し、自らを戒める、というのはよくある話だし、わたし自身にもそういう部分はあると思う。でも、被害者にならなければ、自分の中の悪や不正義には気づかないものだろうか。
自分の子供たちには、差別を憎む心を持ってほしいと思っているが、そのためには差別される体験も悪いばかりではない、なんてわたしにはまったく思えない。人を傷つけるような人間になるより、傷つけられるほうがましなのかもしれないし、自らを傷つけた人間をも赦す心を持つことはすばらしいことなのかもしれないが、だからといって、差別も悪いことばかりではない、といって、差別された痛みを見過ごすことはできない。
「それぞれの行いとその結果に応じて人々を区別することは当然」だとしても、それと「全員が合意できる「区別」と「差別」の線引きは存在しません」ということは、まったく論理的につながらない。わざわざ個人的な行動を「区別されるべき」例として出しているのは、ミスリーディングもいいところだ。
わたしが賃貸住宅を借りるのに「外国人お断り」と言われて苦労するのは、わたしという個人が迷惑行為をした結果ではない。
偉い人や成功者、つまり、権力のあるものは、どんなに悪いことをしても批判されることはあっても、それを理由に差別されるわけではない。意識的に差別と批判を混同し、差別というものにまつわる権力性を覆い隠そうとしている。これも、まったく現実性を伴わない、ためにする議論である。
一読するとすごくもっともらしいのだが、よく読むと、論理的にも粗雑きわまりない文章である。「差別される体験が」悪いことばかりではない、という話を「差別が」悪いことばかりではない、という話にすりかえている。賢い人がこういう穴だらけの議論をするのを見ると、最初の話ではないが、いったいどういう意図があるのかと勘ぐりたくもなるものである。