日本人と結婚しても、ずっと本名で生活して、韓国語もしゃべれるようになるよ。
そうやって生きても後ろ指指されない日本社会になってるよ。
はてなハイク「14歳の自分に言っても信じてもらえなさそうなこと」
ま、正確に言うと、「韓国語も”多少”しゃべれるようになる」ですかね。
でも、14歳のときに知ってた韓国語は、自分の本名と「アンニョンハシムニカ」だけ。ハングルはまったく読めなかったんだから、こういってもそんなにおかしくはないかも。
両親も含めて、すべて日本名で生活していて、本名と言っても、単に知識としてそういうものがある、と了解しているだけで、その名前で呼ばれたことはまったくなかった。
1977年のことだ。
当時、外国人登録の切替は14歳以上だった。授業が終わってから市役所に行ったのでは間に合わん、ということで、親に一筆書いてもらい、掃除をせずに学校を出て、初めての切替にひとりで行った。初めての指紋押捺。市役所のカウンターではなく、奥の方に呼ばれて、黒いインクを右手人差し指につけ、回転方式で指紋をとる。
そのときはそういうもんだと思っていたので、屈辱的だともなんとも思わなかったが、市の職員が、明らかにひと目に触れないようにしている雰囲気は感じた。窓口で通名で呼ばれたほうが、ちょっと不思議だった。書類のどこにも日本名は書いてなかったのに。小さい町で、市役所のすぐ近くに父がやっていたパチンコ店があったから、職員のほうはどこの娘だか知っていたんだろうな。
中学3年になると、やはり進路のことを考えるようになる。高校進学は、別に問題ない。大学もたぶん行くだろう。でもその先は?
就職差別が当たり前のようにあった時代で、成績がいい子供は、当然のように医学部志望だった。ほかに、在日がつける、社会的ステイタスの高い職業はなかったのだ。マスコミも含めて、大企業はあり得ない、という雰囲気だった。
で、わたしもご多分に漏れず医学部に行こうと思っていたのだが、適性も自分の志望もへったくれもないそういう状況には、やはり鬱々とするものがあったんだと思う。
中3の「夏休みの一研究」に、「在日朝鮮人について」というタイトルで、レポートを書いた。内容的には本を数冊読んでまとめ、自分の身の回りで見受けられることを付け加えた程度のものだったんだけど、校内のコンクールで金賞をもらったのは、レポートの中身より、自分の出自を明らかにしたことへの評価だったような気がする。
そのころ読んだ本の1冊に、金賛汀氏の『祖国を知らない世代』という、在日2,3世についてのルポがあった。両親や親戚以外に在日の先達というものを知らなかったわたしは、金賛汀氏に胸のうちをつづった手紙を書いた。本を読んで、著者に手紙を書いたのは、そのときがもちろん初めてだったし、それから後もしたことがない。
本を書く人なんて、田舎の中学生には別世界の人だったので、ていねいな返事が届いたときには、驚いた。いまでも、ノンフィクションライターとして、良心的な仕事をされている人だが、それ以前に、人間としてのハートが感じられる手紙だった。その手紙は、ほかの手紙やノートなどといっしょに、長らく実家に眠っていたが、今年になって掘り出して持ってきたので、今は手元にある。
そして、在日の先達として、この年にわたしの前に現れたのが、弁護士の金敬得氏だ。彼が在日として、初めて司法修習生になったことを報じた新聞の切り抜きを、長いこと机の中に入れていた。将来の希望も医者から弁護士に変更。単純なんだよね。
自分にはまったくどうすることもできない状況としてそこにあった「差別」を、無名の青年がひっくり返すことができる、と、そのとき初めて知ったのだ。
それがわたしの14歳のころ。だから、冒頭の述懐につながるわけ。結論はとくにない。