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ランチを食べていると、相客の会話が耳に入ってくることがあります。別に聞き耳をたてているわけではないのですが、こちらはひとりで、すぐとなりにグループがいたりすると、声の大きさもあいまって、話題のお相伴に預かるしかない状況です。

そういうとき、楽しそうにもりあがっているグループでも、まったく会話がなりたっていないことが、ちょくちょくあるんですよね。

どういうことかというと、ひとりの人が話をする。別の人が、関連はあるんだけども、また別の自分自身の話をする。そしてまた別の人が・・・以下同文、という感じです。

会話というのは、よくキャッチボールに例えられますが、相手の人が発した言葉をいったん受け止めて、そこに自分の考えや体験を含めて投げ返す、というものです。相手の話がなくても、自分の話がなりたっている場合は、会話ではなく、意見の発表会という感じです。

わたしはこれを密かに「マクラ話法」と読んでいます。その心は、相手の話を落語のマクラ のように、自分の話の導入部として扱って、自分は別の話をする、というやり方だからです。マクラがあると、落語の世界にすんなり入っていけますが、落語自体は、マクラがなくても成立しています。これは、ちょっと会話とは違うんですよね。

もちろん、ご本人たちはそんなふうには思っておらず、楽しいおしゃべりをしている、という感覚なのでしょうけど。

この「マクラ話法」に慣れた人が、傾聴の実習で聞き手役になり、「話し手の話をしっかり聞いてください。聞き手側が話題をコントロールしないようにしてください」と指示されていても、「あー、わたしもそういう体験ありますよ」と、つい自分の話を始めてしまいます。人の話をきちんと聞く、ということができておらず、会話というのは自分のことを話すこと、というやり方しか知らないからですね。おそらく、相手が話している間、自分がなにを話すか考えている、というのがクセになっているのでしょう。

「マクラ話法」に熟達している人は、「わたしは社交的だ」と思っている場合が多く、コミュニケーションの方法の問題点を指摘されても、なかなかそれを受け入れることができなかったりします。

相手の話に集中して、話している相手の心情によりそって聞く、ということは、自然にやっている人もたくさんいるのですが、実はできていない人もまた多いんですね。

でも、自分で意識すること、練習することで、だれでも一定のレベルに達することができ、そうなると、仕事の場や家族とのコミュニケーションがスムースになり、なんだかラクになる、という大きな効果を得ることができます。

ご自分がいつも友だちとしている会話は「マクラ話法」じゃないか、と気付くのは、そのために第一歩です。

あ、それと「マクラ話法」というのは、わたしが勝手に作った言葉なので、よそで使っても通じません。念のため。